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 今年は日本人3人がノーベル物理学賞を授賞しました。また、惜しくも授賞は逃しましたが、憲法9条がノーベル平和賞にノミネートされました。今回はノーベル賞について、その歴史や内容について取り上げました。
ノーベル賞


ノーベル賞
【1】日本人3人に与えられた今年のノーベル賞
【2】ノーベル賞とは何か、どんな賞なのか?
【3】青色LEDとノーベル賞

【1】日本人3人に与えられた今年のノーベル賞

 今年は3人の日本人(1人は米国籍)が、青色発光ダイオード(LED)の発明と開発を理由にノーベル物理学賞を授賞しました。
 本節では、その業績を讃え、3名の業績その他を簡単ながら紹介し、加えて、平和賞授賞の可能性が取り沙汰されていた日本国憲法9条を理由としたその試みについても簡単ながら紹介しました。
ノーベル物理学賞に赤崎勇・天野浩・中村修二の3氏

 スウェーデン王立科学アカデミーは10月7日、赤崎勇・名城大教授(85)と天野浩・名古屋大教授(54)、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)の3人に今年のノーベル物理学賞を贈ると発表しました。赤崎さんと天野さんは青色の発光ダイオード(LED)を初めて作り、中村さんが実用化に繋げたのですが、これにより光の三原色がそろう道筋がつき、LEDの爆発的な普及に繋がったのです。授賞理由は「明るく省エネルギーな白色光を可能にした効率的な青色発光ダイオードの発明」です。その研究成果を受けて、白熱電球や蛍光灯に代わるLED照明が実用化しました。室内照明や携帯電話、交差点の信号機の他、省電力・長寿命の大型フルカラー・ディスプレーなどに現在使われています。LEDは電気エネルギーを光に変える半導体素子で、フィラメントを電気で熱した時に出る光を使った白熱電球と違って電気を直接光に変えるので効率がよく、熱による材料劣化も少なくて寿命が長いとされます。赤・緑・青の光の三原色をLEDで実現すれば幅広い色を再現することが出来、用途が広がるわけですが、青色LEDが中々作れず、実用化が競われていました。

 赤崎さんは名古屋大教授時代の1985年、天野さんと共に高輝度のLEDに欠かせない良質な結晶を作製し、89年、窒化ガリウムの半導体で青色に光るLEDを作ることに成功しました。中村さんは日亜化学工業(徳島県阿南市)の研究員時代の90年代前半に製法を進化させました。そして、赤崎さんは、名古屋市の名城大学で会見して、「これ以上の名誉はないと思っています。支えていただいた幾つかの職場の皆さんの大きなサポートのお陰。この場を借りてお礼申し上げたい。私は幸運で、決して私一人で出来たわけではない。この賞に値すると思ったことはなかった」と述べました。また、中村さんは受賞決定後、「自分の発明したものが使われていることは非常に嬉しい。省エネや地球温暖化を食い止めることにも役立っていると思う」と話しました。
 授賞式は12月10日にストックホルムで行なわれ、賞金の800万スウェーデンクローナ(約1億2千万円)は受賞者3人で分けることになります。日本のノーベル賞受賞は、2012年の山中伸弥・京都大教授に続いて20、21、22人目。物理学賞は08年の小林誠・高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授と益川敏英・名古屋大素粒子宇宙起源研究機構長、南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授(米国籍)の3人以来8、9、10人目の受賞となります。


赤崎勇(あかさき・いさむ)
 85歳、鹿児島県生まれ。1952年、京都大理学部化学科卒、神戸工業(現富士通)入社。名古屋大助手、松下電器産業(現パナソニック)などを経て、81年、名古屋大教授。89年、窒化ガリウムの青色LEDを作製。92年、名城大教授。

天野浩(あまの・ひろし)
 54歳、静岡県浜松市生まれ。1983年、名古屋大工学部電子工学科卒。大学4年から赤崎勇氏の研究室に入る。89年、同大工学博士号を取得。02年、名城大理工学部教授。09年、応用物理学会フェロー、10年から名古屋大大学院工学研究科教授。

中村修二(なかむら・しゅうじ)※米国籍
 60歳、愛媛県生まれ。1977年、徳島大工学部電子工学科卒。79年、徳島大大学院修士課程修了。日亜化学工業入社。94年、徳島大大学院博士号取得。99年、日亜化学工業を退社。00年、米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。


参考:発光ダイオード(LED)
 電圧をかけると光を出す半導体素子。LEDを作るにはプラスの電気を帯びたものとマイナスの2種類の半導体が必要で、材料の種類で光る色が決まる。青色LEDに使われる窒化ガリウムではプラスの半導体を作るのが極めて難しかった。

残念!ノーベル平和賞の授賞を逃した日本国憲法9条
今年のノーベル平和賞はマララさんらに

 毎年ノーベル文学賞受賞が有力視されていた村上春樹氏は残念ながら今年も授賞を逃しましたが、今年は村上氏以外に日本人が日本国憲法9条を理由にノーベル平和賞を受賞するのではないかと期待されてきました。残念ながら、ノルウェーのノーベル賞委員会は10月10日、女子教育の権利を唱えてイスラム過激派に頭を撃たれ、一命を取り留めたパキスタンの女子学生マララ・ユスフザイさん(17)と、インドの児童労働問題の活動家カイラシュ・サティヤルティさん(60)の二人に、2014年のノーベル平和賞を授与すると発表しました。二人の授賞理由として、委員会は「子どもや若者への抑圧と闘い、全ての子どもの教育を受ける権利のために奮闘している点」を挙げ、「平和的な世界の発展のために子どもや若者の権利の尊重は不可欠であり、特に紛争下の地域では子どもの権利侵害が暴力の連鎖を生んでいる」としました。今年の平和賞は、世界中から推薦された278候補(231個人と47団体)から同委員会が選定したものです。
憲法9条をノーベル平和賞に!〜一人の主婦が発案、委員会が推薦受理〜

 惜しくも受賞は逃しましたが、戦争の放棄を定めた憲法9条をノーベル平和賞に推した「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会(事務局・神奈川県相模原市)にノルウェー・オスロのノーベル委員会から推薦を受理したとの連絡があり、日本国憲法9条と日本国民が今年のノーベル平和賞の正式な候補になったのです。その連絡はメールで10月9日の夜、実行委に届きました。《ノーベル委員会は2014年ノーベル平和賞の申し込みを受け付けました。今年は278の候補が登録されました。受賞者は10月10日に発表される予定です》との内容でした。事務局の岡田えり子さん(53)は「受理されて嬉しい。受賞者は個人か団体となっているが、受賞者を日本国民としたことを委員会は受け入れてくれた。これで日本国民一人一人が受賞候補者になった」と話しました。

 今回の取り組みは、神奈川県座間市の主婦鷹巣直美さん(37)が始めたものです。2013年5月に署名サイトを立ち上げ、5日間で1500人の署名が集まったと言います。ノーベル委員会に送信すると返事があり、推薦締め切りは毎年2月1日で、国会議員や大学教授や平和研究所所長、過去の受賞者らが推薦できること、また、受賞者は人物か団体のみで、憲法そのものは授賞出来ないということが分かったと言います。そこで鷹巣さんは、よくよく考えた末に受賞者を「日本国民」にしたのです。鷹巣さんは、《9条を保持し、70年近く戦争をしなかった日本国民の受賞に意味がある。みんなが候補として平和を考えるきっかけになれば》と言います。そして、 この取り組みを相模原市の市民団体「9条の会」などに報告すると、協力者が次々に現われ、8月には「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会が発足しました。実行委は今年2月1日までに大学教授や平和研究所長ら43人の推薦人を集め、推薦状に2万4887人の署名も添えてノーベル委員会に送ったのです。その署名は今や40万人を超えているそうです。鷹巣さんは、《一人ひとりの小さな平和への願いが繋がって候補にまでたどりつくことができました。たくさんの方々の協力に感謝でいっぱいです》と言います。
憲法9条が平和賞の有力候補に浮上!?〜オスロ国際平和研究所が予測〜

 10月10日、2014年のノーベル平和賞が発表されました。毎年受賞予測を発表しているノルウェーのオスロ国際平和研究所(PRIO)は3日、「憲法9条を保持する日本国民」を最有力候補に挙げました。その他にも、エドワード・スノーデン氏やロシアの新聞「ノーバヤ・ガゼータ」、マララ・ユスフザイさんなど合計5つの候補が挙がっていたそうです。

 オスロ国際平和研究所(PRIO)のハープウィケン所長(52)は、《中立や不可侵、平和主義につながる原則を掲げる憲法9条は、軍事的な紛争解決が多用される昨今において重要にも拘わらず、十分に光が当てられていない。領土問題などアジアが孕む将来の紛争の恐れについても注目されるべきだ》と話したと言います。そのPRIOのサイト上に掲載されたコメントでは、安倍内閣が7月に踏み切った憲法解釈の変更が《(アジア)地域で武力衝突の前触れになると懸念されている》として、《初期のノーベル平和賞が掲げた原則へ回帰する時だろう》と評しているそうです。ただ、同研究所は毎年5つ前後のノーベル平和賞候補を挙げているのですが、残念ながらその的中率は余り高くなく、13年までの過去10年間に予測が的中したのは、温暖化対策を訴えて07年に受賞したアル・ゴア元アメリカ副大統領しかいないと言います。


参考:「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会 - フェイスブックページ
https://www.facebook.com/nobelpeace9jou


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【2】ノーベル賞とは何か、どんな賞なのか?

 ノーベル賞とはどのような賞なのでしょうか? 
 本節ではノーベル賞の歴史や内容、また、その権威及びそれによって起こる様々な問題点などについて取り上げ解説しました。また、参考までに過去のノーベル賞受賞者のリストもアップしました。
ノーベル賞とは?

 ノーベル賞とは、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞のことで、物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に贈られるものです。
 ノーベル賞は1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行なわれました。また、ノーベル経済学賞と一般に言われているアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行なわれました。
ノーベル賞の歴史

 ノーベルの遺言に基づいてノーベル財団が設立され、1901年以来、戦争など特別の場合を除いて、理学、化学、生理学・医学、文学、平和の5部門についてノーベル賞が毎年授与されるようになったのです。なお1969年以来、新たに経済学賞が制定され、計6部門となりました。ただし、経済学賞の賞金の原資はノーベル財団ではなくスウェーデン国立銀行の基金によるものであることもあって、この賞はその正式名称を「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞」としており、厳密にはノーベル賞には含めない場合もあります。

アルフレッド・ノーベル ノーベル賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833〜1896)は、スウェーデンの化学者で工業家であり、発明家でした。彼はダイナマイトをはじめとする様々な爆薬の開発・生産や、バクー油田の開発などで巨万の富を築きました。しかし、爆薬や兵器を下に富を築いた生前のノーベルには、一部から「死の商人」として批判の声が上がっていました。事実1888年、兄のリュドビックがカンヌにて死去した時、フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しと共に報道したことすらあったのです。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルはとても困惑し、死後自分が人々にどのように記憶されるかを考えるようになったと言います。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去しますが、家族を持たなかったノーベルは、自分の遺産を利用して、「前年度に人類に対して最大の貢献をした人物」に対して毎年賞を授けるように遺言します。彼はその理想主義的精神から、自然科学の諸分野だけでなく、文学と平和の2部門も設けました。
 彼の遺言はその死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていました。この遺言においてノーベルは、《私の全ての換金可能な財は次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする》と記しています。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94%、何と3100万スウェーデン・クローナに及んだと言います。しかし、周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されませんでしたが、その後、彼の遺志を継ぐためにノーベル財団設立委員会が結成され、賞設立の準備が行なわれて、賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされました。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、同年6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制が整います。こうして賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布されます。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消しましたが、しかし、両国分離後も授与機関は変更されませんでした。
ノーベル賞とその選考

 ノーベル賞の受賞者は何百人という候補者の中から選ばれますが、選考の責任は、物理学賞と化学賞、そして経済学賞についてはスウェーデン科学アカデミー、生理学・医学賞についてはカロリンスカ研究所、文学賞についてはスウェーデン・アカデミー、平和賞についてはノルウェー議会にそれぞれ設置されたノーベル賞委員会が負っています。授賞式は、スウェーデン国王臨席の下、ノーベルの命日に当たる12月10日に毎年行なわれ、現在ではスウェーデンの国家的行事となっています。また、受賞者は受賞に際して「ノーベル賞受賞記念講演」を行なうことが慣例となっています。


ノーベル賞の選考
 ノーベル賞の選考は物理学賞と化学賞、経済学賞の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、医学・生理学賞はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、平和賞はノルウェー・ノーベル委員会が、文学賞はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行なっています。ノーベル賞の選考は秘密裏に行なわれ、その過程は受賞の50年後に公表される決まりとなっています。よって、ノーベル賞の候補というものは公的には存在しないことになるわけですが、いつか受賞するだろうと目される人物が各分野に存在するのも事実で、たとえばトムソン・ロイターは旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しています(トムソン・ロイター引用栄誉賞)が、これは近年の論文の引用数などから算出したものです。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではありません。最終選考は発表日当日に行なわれることが慣例になっていて、マスコミの事前予想が難しい原因ともなっています。

ノーベル賞の授賞資格
 73年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば物故者に対して授賞が行なわれることもあり、たとえば31年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルトや、61年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人でした。しかし、74年以降は授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされるようになりましたが、例外として、11年には医学・生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことが後に判明し、問題となったこともあります。もっとも、授賞決定発表の後に本人が死去した場合にはその授賞が取り消されることはありません。上記のスタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まったのです。

ノーベル賞の辞退者
 これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、ジャン=ポール・サルトル(1964年文学賞辞退)、レ・ドゥク・ト(1973年平和賞辞退)、ゲルハルト・ドーマク(1939年医学・生理学賞辞退)の3人がいます。ただし、ドーマクの辞退は本人の意思ではなく、ナチスの圧力で強制的に辞退させられただけであったため、戦後の1947年に賞を受け取っています。

ノーベル賞の授賞式と賞金
ノーベル賞授賞式
 ノーベル賞の授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に行なわれ、平和賞を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、平和賞はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行なわれ(古くはオスロ大学の講堂で行なわれていました)まる。また、受賞者には、賞金の小切手と賞状、メダルがそれぞれ贈られることになっています。なお、ノーベルがノーベル賞の授与によって科学者の業績を讃えると同時に、科学者に経済的独立を与え、研究に専念できるようにしたいと願っていたこともあって、ノーベル賞の賞金額はこの種の賞の賞金額の中では最高位に設定されています。
ノーベル賞の授賞式


晩餐会
ノーベル賞の晩餐会 ノーベル賞の授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)にて、スウェーデン王室及び約1300人のゲストが参加する晩餐会が行なわれます。また、平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行なわれ、こちらにはノルウェーの国会、首相及び06年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれます。もっとも79年の平和賞の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使って下さい」として出席を辞退、晩餐会の開催を中止させて、晩餐会に使うはずだった7000USドルの費用は、カルカッタの2千人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われたということがありましたが、これは現時点で唯一の晩餐会が中止になった例だそうです。ちなみに晩餐会の食器類などに使う調度品は普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用されると言います。また、晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されているそうです。なお、91年にノーベル賞90周年事業の一環として晩餐会に使う食器類を全てスウェーデン製に置き換えようとしたことがありましたが、カトラリーだけはその複雑なデザイン故に仕上げ研磨が出来る技術がスウェーデン国内になく、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市の山崎金属工業に依頼したということもあると言います。

その他のイベント
 ノーベル賞の受賞者は、よく知られているように、受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行なうのが通例になっています。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行なうパーティーに出席し、希望する受賞者は大学生らと更なる躍進を願ってそこで一斉に蛙跳びをすることも慣例となっています。

ノーベル賞の賞金とメダル


ノーベル賞の賞金
 ノーベル賞の受賞者には賞状とメダルと賞金が与えられます。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としています。その賞金額は、01年から賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)となっていましたが、しかし、スウェーデンのノーベル財団は12年6月の理事会で、過去10年間に渡って運用益が予想を下回ったことなどを理由として、12年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とすることを決めました。賞金の配分については、受賞者が2人(団体を含む)の場合は全賞金を折半することと定められているます。受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」「3人の共同研究による受賞」であれば3分の1ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば、単独受賞の人物が2分の1、共同受賞の2人が残りの2分の1(1人当たり4分の1)を貰う形になります。なお、日本においてはノーベル賞の賞金は、所得税法第9条第1項第13号ホに従って非課税となっています。これは、49年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に賞金への課税について論争が起こったことを受けて改正されたものです。

ノーベル賞のメダル
ノーベル賞 ノーベル賞の受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されています。また、1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっています。メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されています。メダルの重量は約200gで、直径は約6.6cm。メダルの表面にはアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されています。表面のデザインは物理学賞・化学賞・医学生理学賞・文学賞とでは同じですが、平和賞と経済学賞とでは若干異なっています。一方、裏面のデザインは賞によって異なりますが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっています。また、1980年以前のメダルは24Kの純金でしたが、落としただけで曲がってしまったり傷がつきやすいということもあって、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されています。また、メダルの制作は、10年まではスウェーデン政府の機関が行なっていましたが、予算削減のために、11年からはノルウェーの企業に委託されることになりました。しかし、国内での製造を望む国民の要望が多かったため、12年から今度はスウェーデンの民間企業で製造されることになりました。お、ガムラスタンにあるノーベル博物館にはノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入すると言われ、08年の物理学賞受賞者の益川敏英氏などはこのチョコを600個も買い込んで話題となたそうです。

ノーベル賞の権威〜自然科学部門におけるノーベル賞の権威と影響〜

 ノーベル賞における自然科学分野の国別獲得数の推移は、ある程度までその国の基礎科学における研究水準を反映していると考えられます。たとえば第二次大戦以前、最も多くの受賞者を出していた国はドイツでしたが、戦後、科学研究の中心がアメリカに移動したのに伴って、アメリカがトップの座を奪いました。また、フランスはドイツと共に鰻落しましたが、イギリスは第二次大戦で傷手を受けた国であるにも拘わらず、一貫して多数の受賞者を輩出しており、中でもケンブリッジ大学のキャベンディシュ研究所は、これまで20名を超える受賞者の研究の場となってきました。

 自然科学部門に関してノーベル賞の権威は絶大なものがありますが、それは受賞者の選定が、ノーベル賞の選考委員会の長年の努力を通じて、他の諸部門に比べて客観的で公平だとの国際的評価を受けてきたことに主として起因しています。実際、後年、選定にミスがあったとされる事例もないわけではありませんが、ノーベル賞の受賞者リストは20世紀を代表する科学者を網羅しています。また、ノーベル賞受賞者の科学界における希少性が賞の権威と受賞者のエリート性を高めているという事情もあります。というのも、ノーベル賞の制定以降、比較的最近に至るまで、科学者総数は指数関数的な増加を示してきたのに対して、ノーベル賞受賞者は、毎年各部門3人以内という制限と、受賞者の多くが高齢という事情が重なって、科学者総数に対する受賞者の比率は常に減少しつつあるからです。特に1部門3人以内という制限は、ノーベル賞級の業績を持ちながら受賞に至らない科学者を多数作り出していることになります。かくて、毎年10月初旬のノーベル賞の発表は、世界中の有力な科学者にとって強い関心事たらざるをえないわけです。ノーベル賞の受賞は、科学者個人にとっての栄誉であるばかりでなく、科学者の属する国家や研究機関の栄誉でもあることから、オリンピックにおけるメダル獲得競争同様、各国政府、有力科学機関及びジャーナリズムも、毎年のノーベル賞の行方を注目しており、このことがまた賞の知名度と威信を高める働きをしているわけです。
ノーベル賞に対する評価と批判


西欧中心だったノーベル賞
 ノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、その証拠に、1926年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったと言われます。そのため、同年の医学・生理学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークのヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎は、上記の理由もあって残念ながら受賞を逃したのです。なお、後年フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されています。また、1929年の医学生理学賞は、ビタミンB1の発見によりオランダのクリスティアーン・エイクマンに贈られていますが、エイクマンは米糠の中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したに過ぎず、実際にその栄養素をオリザニン(ビタミンB1)として分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎でした。なお、欧米以外の国で研究活動を行なった非欧米人では、30年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初で、その後、日本人は49年に湯川秀樹、65年に朝永振一郎らが同じく物理学賞でノーベル賞を受賞しています。

過誤による授賞
 ポルトガルのエガス・モニスはロボトミー手術を確立したことで49年の医学生理学賞を受賞していますが、ロボトミーは効果が限定的であるにも拘わらず副作用や事故が多く、また、その後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはありません。しかもモニス自身、実験的な手術を行なっただけで、臨床には導入していなかったのです。

ノーベル文学賞をめぐる論争
 文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがありましたが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義を巡る論争が起こり、これをキッカケとして、これ以降、文学賞の対象は純文学に限られることとなりました。

ノーベル賞とその政治色
 その政治性から特に問題とされるのが平和賞です。ちなみに、ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されています。その理由は諸説ありはっきりしないのですが、当時のスウェーデンとノルウェーが同君連合を組んでいたこと、また、当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために、平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどがその理由として考えられています。

 通常は世界の平和や福祉などに貢献した人物や団体がノーベル平和賞を受賞するものと思われていますが、時には「どうしてこの人物が?」というような人が平和賞を受賞することもよくあります。中には、驚くことに平和ではなく戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともあるくらいです。たとえばキャンプ・デービッド合意によりエジプトとイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価されて78年の平和賞がエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られましたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身でした。結果的にサダトの狙いは的中したわけですが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となりました。その一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にも渡ってワシントンD.C.郊外の大統領保養地キャンプ・デービッドを自由に使わせ、難航する和平会談の成功のために奔走したアメリカのジミー・カーター大統領がこの両首脳と共に平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がりました。そのカーターには02年になって「数十年間に渡り国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に遅ればせながらの平和賞が贈られています。
 その一方で、平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがよくあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくあります。その例として、ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキーやソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフ博士、中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世、ポーランド民主化運動を主導した「連帯」のレフ・ワレサ、南アフリカの人種隔離政策を批判したデズモンド・ツツ主教、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチー女史、中国の人権侵害を批判し民主化を訴えた劉暁波などが挙げられます。なお、平和賞ではありませんが、58年にノーベル文学賞を受賞したボリス・パステルナークはソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされましたが、それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っています。

ノーベル賞に対する総合的評価
 ノーベル賞はノーベルその人が意図した以上の大きな意味と役割を持つに至りましたが、その結果、ノーベル賞が国家的威信を高める手段と見なされたり、科学者や政治家の功名心の対象とされるという弊害がないではなく、特に平和賞に関してはその政治色の濃さがしばしば批判されています。また昨今、科学研究が巨大化・集団化するにつれて、発見の栄誉を誰に帰属させ、ノーベル賞を誰に与えるかという判断が従来ほど容易なものではなくなってきている事情も指摘されているのです。

ノーベル賞の受賞者


物理学賞 化学賞 医学・生理学賞 文学賞 平和賞 経済学賞
1901 W. C. レントゲン J. H. ファント ホッフ E. A. von ベーリング シュリ-プリュドム J. H. デュナン
F. パシー
1902 H. A. ローレンツ
P. ゼーマン
E. H. フィッシャー R. ロス T. モムゼン E. デュコマン
C. A. ゴバ
1903 A. H. ベクレル
P. キュリー
M. キュリー
S. A. アレニウス N. R. フィンセン B. ビョルンソン W. R. クリーマー
1904 J. W. レイリー W. ラムゼー I. P. パヴロフ F. ミストラル
J. エチェガライ
国際法学会
1905 P. E. A. レナルト J. F. W. A. von バイヤー R. コッホ H. シェンキエヴィチ B. von ズットナー
1906 J. J. トムソン F. F. H. モアッサン C. ゴルジ
S. ラモン イ カハル
G. カルドゥッチ T. ルーズヴェルト
1907 A. A. マイケルソン E. ブフナー C. L. A. ラヴラン R. キップリング E. T. モネタ
J. L. ルノー
1908 G. リップマン E. L. N. ラザフォード P. エールリヒ
I. I. メチニコフ
R. C. オイケン K. P. アーノルドソン
F. バイエル
1909 G. マルコーニ
K. F. ブラウン
F. W. オストワルト E. T. コッヒャー S. O. L. ラーゲルレーブ A. M. F. ベールナルト
エストゥールネル ド コンスタン P.B.B.,B.d.C.d.R.
1910 J. D. ファン デル ワールス O. ワラッハ A. コッセル P. von ハイゼ 国際平和局
1911 W. ウィーン M. キュリー A. グルストランド M. メーテルリンク T. M. C. アセル
A. H. フリート
1912 N. G. ダレーン F. A. V. グリニャール
P. サバティエ
A. カレル G. ハウプトマン E. ルート
1913 H. カマリング-オネス A. ウェルナー C. R. リシェ R. タゴール H. M. ラフォンテーヌ
1914 M. T. F. von ラウエ T. W. リチャーズ R. バラニー    
1915 W. H. ブラッグ
W. L. ブラッグ
R. M. ウィルシュテッター   R. ロラン  
1916       C. G. V. von ヘイデンスタム  
1917 C. G. バークラ     K. ギェレループ
H. ポントピダン
赤十字国際委員会
1918 M. K. E. L. プランク F. ハーバー      
1919 J. シュタルク   J. ボルデ C. シュピッテラー T. W. ウィルソン
1920 C. E. ギョーム W. H. ネルンスト S. A. S. クロー K. ハムスン L. V. A. ブルジョワ
1921 A. アインシュタイン F. ソディ   A. フランス K. H. ブランティング
C. L. ランゲ
1922 N. H. D. ボーア F. W. アストン A. V. ヒル
O. F. マイヤーホーフ
M. J. ベナヴェンテ F. ナンセン
1923 R. A. ミリカン F. プレーグル F. G. バンティング
J. J. R. マクラウド
W. B. イェーツ  
1924 K. M. G. シーグバーン   W. アイントホーフェン W. S. レイモント  
1925 J. フランク
G. L. ヘルツ
R. A. ジグモンディ   G. B. ショー C. G. ドーズ
J. A. チェンバレン
1926 J. B. ペラン T. スヴェドベリ J. A. G. フィービガー G. デレッダ A. ブリアン
G. シュトレーゼマン
1927 A. H. コンプトン
C. T. R. ウィルソン
H. O. ウィーラント J. ワーグナー-ヤウレッグ H. L. ベルグソン F. E. ビュイソン
L. クビデ
1928 O. W. リチャードソン A. ウィンダウス C. J. H. ニコル S. ウンセット  
1929 L. V. ド ブロイ A. ハーデン
H. K. A. S. von オイラー-ケルピン
C. エイクマン
F. G. ホプキンス
T. マン F. B. ケロッグ
1930 C. V. ラマン H. フィッシャー K. ラントシュタイナー H. シンクレア ルイス N. セーデルブロム
1931   C. ボッシュ
F. C. R. ベルギウス
O. H. ワールブルク E. A. カールフェルト J. アダムズ
N. M. バトラー
1932 W. K. ハイゼンベルク I. ラングミュア C. S. シェリントン
E. D. エードリアン
J. ゴールズワージー  
1933 E. シュレーディンガー
P. A. M. ディラック
  T. H. モーガン I. A. ブーニン N. エンジェル
1934   H. C. ユーリー G. R. マイノット
W. P. マーフィー
G. H. ホイップル
L. ピランデロ A. ヘンダーソン
1935 J. チャドウィック J. F. ジョリオ-キュリー
I. ジョリオ-キュリー
H. シュペーマン   C. von オシエツキー
1936 V. F. ヘス
C. D. アンダーソン
P. J. W. デバイ H. H. デール
O. レーウィ
E. オニール C. サーヴェドラ ラマス
1937 C. J. デヴィッソン
G. P. トムソン
A. von セント ジェルジ ナジラポルト E. A. R. セシル R. マルタン デュ ガール E. A. R. セシル
1938 E. フェルミ R. J. クーン C. ハイマンス P. S. バック ナンセン国際難民事務所
1939 E. O. ローレンス A. F. J. ブーテナント
L. ルジチカ
G. ドーマク F. E. シッランパー  
1940
1941
1942
1944 I. I. ラビ O. ハーン E. J. アーランガー
H. S. ガッサー
J. V. イェンセン 赤十字国際委員会
1945 W. パウリ A. I. ヴィルタネン A. フレミング
E. B. チェイン
H. W. フローリー
G. ミストラル C. ハル
1946 P. W. ブリッジマン J. B. サムナー
J. H. ノースロップ
W. M. スタンリー
ハーマン ジョーセフ マラー H. ヘッセ J. R. モット
E. G. ボールチ
1947 E. V. アップルトン R. ロビンソン C. F. コリ
G. T. コリ
B. A. ウッセイ
A. ジッド フレンド教徒奉仕団理事会
アメリカ合衆国フレンド教徒奉仕委員会
1948 P. M. S. ブラケット A. W. K. ティセリウス P. H. ミュラー T. S. エリオット  
1949 湯川秀樹 W. F. ジオーク W. R. ヘス
A. E. モーニス
W. C. フォークナー J. ボイド-オア
1950 C. F. パウエル O. P. H. ディールス
K. アルダー
E. C. ケンドル
P. S. ヘンチ
T. ライヒシュタイン
バートランド A. W. ラッセル R. J. バンチ
1951 J. D. コッククロフト
E. T. S. ウォルトン
G. T. シーボーグ
E. M. マクミラン
M. タイラー P. F. ラーゲルクヴィスト L. ジュオー
1952 F. ブロッホ
E. M. パーセル
A. J. P. マーティン
R. L. M. シンジ
S. A. ワクスマン F. C. モーリヤック A. シュワイツァー
1953 F. ゼルニケ H. シュタウディンガー F. A. リップマン
H. A. クレブス
W. L. S. チャーチル G. C. マーシャル
1954 M. ボルン
W. W. G. ボーテ
L. C. ポーリング J. F. エンダーズ
T. H. ウェラー
F. C. ロビンズ
E. M. ヘミングウェイ 国際連合難民高等弁務官事務所
1955 P. クッシュ
W. E. ラム
V. デュ ヴィニョー A. H. T. テオレル H. K. ラクスネス  
1956 W. B. ショックレー
J. バーディーン
W. H. ブラタン
C. N. ヒンシェルウッド
N. N. セミョーノフ
A. F. クルナン
D. W. リチャーズ
W. フォルスマン
J. R. ヒメネス  
1957 李 政道 (リ ツォン ダオ)
楊 振寧 (ヤン チェン ニン)
A. R. トッド D. ボヴェ A. カミュ L. B. ピアソン
1958 P. A. チェレンコフ
I. E. タム
I. M. フランク
F. サンガー G. W. ビードル
E. L. テータム
J. レーダーバーグ
B. L. パステルナーク D. G. ピール
1959 E. G. セグレ
O. チェンバレン
J. ヘイロウスキー S. オチョア
A. コーンバーグ
S. クアジモド P. J. ノエルベッカー
1960 D. A. グレーザー W. F. リビィ F. M. バーネット
P. B. メダワー
S. J. ペルス A. J. ルツーリ
1961 R. ホフスタッター
R. L. メスバウアー
M. カルヴィン G. von ベケシー I. アンドリッチ D. H. A. C. ハマーショルド
1962 L. D. ランダウ M. F. ペルツ
J. C. ケンドルー
F. H. C. クリック
J. D. ワトソン
モーリス H. F. ウィルキンス
J. E. スタインベック L. C. ポーリング
1963 E. P. ウィグナー
M. G. メイヤー
J. H. D. イェンゼン
K. チーグラー
G. ナッタ
J. C. エクルズ
A. L. ホジキン
A. F. ハクスリー
G. セフェリス 赤十字国際委員会
赤十字社連盟
1964 C. H. タウンズ
N. G. バソフ
A. M. プロホロフ
D. M. C. ホジキン K. E. ブロック
F. リネン
J. P. サルトル マーティン ルーサー キング
1965 朝永振一郎
J. S. シュウィンガー
R. P. ファインマン
R. B. ウッドワード F. ジャコブ
A. M. ルウォフ
J. L. モノー
M. A. ショーロホフ 国際連合児童基金
1966 A. カスレ R. S. マリケン F. P. ラウス
C. B. ハギンズ
S. Y. H. アグノン
N. ザックス
 
1967 ハンス A. ベーテ M. アイゲン
R. G. W. ノーリッシュ
G. ポーター
R. グラニット
H. K. ハートライン
G. ウォールド
M. A. アストゥリアス  
1968 L. W. アルヴァレ L. オンサーガー R. W. ホリー
H. G. コラナ
M. W. ニーレンバーグ
川端康成 R. カサン
1969 M. ゲル-マン O. ハッセル
D. H. R. バートン
M. デルブリュック
A. D. ハーシェイ
S. E. ルリア
S. B. ベケット 国際労働機関 R. A. K. フリッシュ
ヤン ティンバーゲン
1970 H. O. G. アルヴェーン
L. E. F. ネール
L. F. レロアール ジュリアス アクセルロッド
U. S. フォン オイラー
B. カッツ
A. I. ソルジェニーツィン N. E. ボーローグ P. A. サミュエルソン
1971 D. ガボール G. ヘルツベルグ E. W. サザランド P. ネルーダ W. ブラント S. クズネッツ
1972 J. バーディーン
L. N. クーパー
J. R. シュリーファー
C. B. アンフィンゼン
W. H. スタイン
S. ムーア
G. M. エーデルマン
R. R. ポーター
H. T. ベル   J. R. ヒックス
K. J. アロー
1973 江崎玲於奈
I. ジエーヴァー
B. D. ジョセフソン
E. O. フィッシャー
G. ウィルキンソン
K. von フリッシュ
K. ローレンツ
N. ティンバーゲン
P. ホワイト H. A. キッシンジャー
レ ドク ト
W. W. レオンチェフ
1974 A. ヒューイッシュ
M. ライル
P. J. フローリー A. クロード
C. R. ド デューヴ
G. E. パレード
E. ユーンソン
H. マルティンソン
S. マクブライド
佐藤栄作
F. A. von ハイエク
K. G. ミュルダール
1975 A. N. ボーア
B. R. モッテルソン
L. J. レインウォーター
J. W. コーンフォース
V. プレローグ
D. ボルチモア
R. ダルベッコ
H. M. テミン
E. モンターレ A. サハロフ L. カントロヴィチ
T. C. クープマンズ
1976 B. リクター
S. C. C. ティン
W. N. リプスコム B. S. ブラムバーグ
D. C. ガイジュセク
S. ベロー M. コリガン
B. ウィリアムズ
M. フリードマン
1977 P. W. アンダーソン
N. F. モット
J. H. ヴァン ヴレック
I. プリゴジン R. S. ヤーロウ
R. ギヤマン
A. V. シャリー
V. アレイクサンドレ アムネスティ インターナショナル J. E. ミード
B. オーリン
1978 A. A. ペンジアス
R. W. ウィルソン
P. L. カピッツァ
P. D. ミッチェル D. ネイサンズ
H. O. スミス
W. アルバー
I. B. シンガー M. ベギン
サダト
H. A. サイモン
1979 S. ワインバーグ
S. L. グラショウ
A. サラム
H. C. ブラウン
G. ウィッティヒ
A. M. コーマック
G. N. ハウンスフィールド
O. エリティス マザー テレサ T. W. シュルツ
W. A. ルイス
1980 J. W. クローニン
V. L. フィッチ
P. バーグ
W. ギルバート
F. サンガー
J. ドーセ
G. D. スネル
B. ベナセラフ
C. ミウォシュ A. ペレス エスキベル L. R. クライン
1981 N. ブレンベルゲン
A. L. シャーロウ
K. M. B. シーグバーン
福井謙一
R. ホフマン
R. W. スペリー
D. H. ヒューベル
T. N. ウィーゼル
E. カネッティ 国際連合難民高等弁務官事務所 J. トービン
1982 K. G. ウィルソン A. クルーグ S. K. ベルイストレーム
B. I. サムエルソン
ジョン R. ヴェーン
G. G. マルケス A. ミュルダール
A. G. ロブレス
G. J. スティグラー
1983 S. チャンドラセカール
W. A. ファウラー
H. タウビー B. マクリントック W. ゴールディング L. ワレサ G. ドブルー
1984 C. ルビア
S. ファン デル メーア
R. B. メリフィールド N. K. イェルネ
G. J. F. ケーラー
C. ミルシュタイン
J. サイフェルト D. M. ツツ J. R. N. ストーン
1985 K. von クリッツィング H. A. ハウプトマン
J. カール
M. S. ブラウン
J. L. ゴールドスタイン
C. シモン 核戦争防止国際医師の会 F. モディリアニ
1986 G. K. ビニッヒ
H. ローラー
E. A. F. ルスカ
D. R. ハーシュバッハ
李 遠哲 (リ ユアン T.)
J. C. ポラーニ
S. コーエン
R. レヴィ-モンタルチーニ
W. ショインカ E. ウィーゼル J. M. ブキャナン
1987 K. A. ミュラー
J. G. ベドノルツ
D. J. クラム
C. J. ペダーセン
J.-M. P. レーン
利根川進 J. ブロツキー O. アリアス サンチェス R. M. ソロー
1988 L. M. レーダーマン
M. シュワルツ
J. スタインバーガー
J. ダイゼンホーファー
R. フーバー
H. ミヒェル
J. W. ブラック
G. エリオン
G. H. ヒッチングズ
ナギーフ マハフーズ 国際連合平和維持軍 M. アレ
1989 H. G. デーメルト
W. パウル
N. F. ラムゼー
S. アルトマン
T. R. チェック
J. M. ビショップ
H. E. ヴァーマス
C. J. セラ ダライ ラマ T. ホーヴェルモ
1990 R. E. テイラー
J. I. フリードマン
H. W. ケンドール
E. J. コーリー J. E. マレー
E. D. トマス
O. パス M. S. ゴルバチョフ H. M. マーコウィッツ
M. H. ミラー
W. F. シャープ
1991 P.-G. ド ジャンヌ R. R. エルンスト E. ネーヘル
B. ザークマン
N. ゴーディマー アウン サン スーチー R. H. コース
1992 G. シャルパック R. A. マーカス E. H. フィッシャー
E. G. クレブス
D. ウォルコット R. メンチュ G. S. ベッカー
1993 R. A. ハルス
J. H. テイラー
K. B. マリス
M. スミス
R. J. ロバーツ
P. A. シャープ
T. モリソン ネルソン R. マンデラ
F. W. デクラーク
R. W. フォーゲル
D. C. ノース
1994 C. G. シャル
B. N. ブロックハウス
G. A. オラー A. G. G. ギルマン
M. ロッドベル
大江健三郎 Y. アラファト
S. ペレス
Y. ラビン
J. C. ハーサニ
J. F. ナッシュ
R. ゼルテン
1995 M. L. パール
F. ライネス
P. クルッツェン
M. J. モリナ
F. S. ローランド
E. ルイス
C. ニュスライン フォルハルト
E. ウィシャウス
S. ヒーニー パグウォッシュ会議
J. ロートブラット
R. E. ルーカス
1996 D. M. リー
R. C. リチャードソン
D. D. オシェロフ
R. F. カール
R. E. スモーリー
H. クロトー
P. ドハーティ
R. ツィンカーナーゲル
W. シンボルスカ C. ベロ
J. R. ホルタ
W. ヴィクリー
J. マーリーズ
1997 S. チュー
C. コーエン タヌジ
W. D. フィリップス
P. D. ボイヤー
J. E. ウォーカー
J. C. スコー
S. B. プルジナー D. フォ 地雷禁止国際キャンペーン
J. ウィリアムズ
R. C. マートン
M. S. ショールズ
1998 H. L. シュテルマー
D. C. ツーイ
R. B. ラフリン
W. コーン
J. A. ポープル
L. H. イグナロ
R. F. ファーチゴット
F. ムラド
J. サラマーゴ J. ヒューム
D. トリンブル
A. セン
1999 G. ヘットホーフト
E. M. フェルトマン
A. H. ズベイル G. ブローベル G. グラス 国境なき医師団 R. A. ムンデル
2000 ジャック キルビー
H. クローマー
J. アルフョーロフ
白川英樹
アラン ヒーガー
アラン マックダイアミッド
カールソン
グリーンガード
カンデル
高 行健 金 大中 ジェームズ.ヘックマン
ダニエル.マクファデン
2001 E. A. コーネル
W. ケターレ
C. E. ワイマン
W. S. ノールズ
野依良治
K. B. シャープレス
L. H. ハートウェル
R. T. ハント
P. M. ナース
V. S. ナイポール 国際連合
コフィ アッタ アナン
G. A. アカロフ
A. M. スペンス
J. E. スティグリッツ
2002 小柴昌俊
レイモンド デイヴィス
リカルド ジャコーニ
ジョン B. フェン
田中 耕一
クルト ビュートリッヒ
シドニー ブレンナー
ロバート H. ホルヴィッツ
ジョン E. サルストン
イムレ ケルテース ジミー カーター ダニエル カーネマン
バーノン L. スミス
2003 アレクセイ A. アブリコソフ
ヴィタリー L. ギンツブルク
アンソニー J. レゲット
ピーター アグレ
ロドリック マキノン
ポール C. ラウターバー
ピーター マンスフィールド
J .M. クッツェー シリン エバディ ロバート F. エングル
クライヴ W. J. グレンジャー
2004 デヴィッド J. グロス
H. デヴィッド ポリツァー
フランク ウィルチェック
アーロン チカノヴァー
アブラム ハーシュコ
アーウィン ローズ
リチャード アクセル
リンダ B. バック
エルフリーデ イエリネク ワンガリ マータイ フィン E. キドランド
エドワード C. プレスコット
2005 ロイ J. グラウバー
ジョン L. ホール
テオドール W. ヘンシュ
イヴ ショーヴァン
ロバート H. グラッブス
リチャード R. シュロック
バリー J. マーシャル
J. ロビン ウォーレン
ハロルド ピンター 国際原子力機関
モハメド エルバラダイ
ロバート J. オーマン
トーマス C. シェリング
2006 ジョン C. マザー
ジョージ F. スムート
ロジャー D. コーンバーグ アンドルー Z. ファイアー
クレイグ C. メロー
オルハン パムク グラミン銀行
ムハマド ユヌス
エドムンド S. フェルプス
2007 アルベール フェール
ペーター グリュンベルク
ゲルハルト エルトゥル マリオ R. カペッキ
マーティン J. エヴァンス
オリヴァー スミシーズ
ドリス レッシング 気候変動に関する政府間パネル
アルバート アーノルド (アル) ゴア
レオニード ハーヴィッチ
エリック S. マスキン
ロジャー B. メイヤソン
2008 南部陽一郎
小林誠
益川敏英
下村脩
マーチン シャルフィエ
ロジャー Y. チェン
ハラルド ツア ハウゼン
フランソワーズ バレシヌシ
リュック モンタニエ
ジャン-マリ ギュスターブ ル クレジオ マルティ アハティサーリ ポール クルーグマン
2009 チャールズ K. カオ
ウィラード S. ボイル
ジョージ E. スミス
ベンカトラマン ラマクリシュナン
トーマス A. スタイツ
アダ E. ヨナット
エリザベス H. ブラックバーン
キャロル W. グライダー
ジャック W. ゾスタク
ヘルタ ミュラー バラク オバマ エリノア オストロム
オリバー E. ウィリアムソン
2010 アンドレ ガイム
コンスタンチン ノボセロフ
リチャード F. ヘック
根岸英一
鈴木章
ロバート G. エドワーズ マリオ バルガス リョサ 劉 暁波 (リウ シアオポー) ピーター A. ダイヤモンド
デール T. モルテンセン
クリストファー A. ピサリデス
2011 ソール・パールマッター
アダム・リース
ブライアン・P・シュミット
ダニエル・シェヒトマン ブルース・ボイトラー
ジュール・ホフマン
ラルフ・スタインマン
トーマス・トランストロンメル エレン・ジョンソン・サーリーフ
レイマ・ボウィ
イエメン タワックル・カルマン
トーマス・サージェント
クリストファー・シムズ
2012 セルジュ・アロシュ
デービッド・ワインランド
ロバート・レフコウィッツ
ブライアン・コビルカ
ジョン・ガードン
山中伸弥
莫言(モー・イエン) 欧州連合 アルヴィン・ロス
ロイド・シャープレー
2013 ピーター・ヒッグス
フランソワ・アングレール
マーティン・カープラス
マイケル・レヴィット
アリー・ウォーシェル
ランディ・シェクマン
ジェームス・ロスマン
トーマス・スードフ
アリス・マンロー 化学兵器禁止機関 ユージン・ファーマ
ラース・ハンセン、ロバート・シラー
2014 赤崎勇
天野浩
中村修二
エリック・ベツィグ
ウィリアム・モーナー
ドイツ シュテファン・ヘル
ジョン・オキーフ
マイブリット・モーセル
エドバルド・モーセル
パトリック・モディアノ マララ・ユサフザイ
カイラシュ・サティーアーティ
ジャン・ティロール


参考:ノーベル賞 受賞者の名言 一覧 - 地球の名言
http://earth-words.org/archives/1614

日本人のノーベル賞受賞者と受賞理由


人物 授賞部門 受賞理由
1949 湯川秀樹 物理学賞 陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予言
1965 朝永振一郎 物理学賞 超多時間理論と繰り込み理論、量子電磁力学分野の基礎的研究
1968 川端康成 文学賞 人生の哀歓の幻想と美を見事に描いた『雪国』及び『伊豆の踊子』『千羽鶴』『山の音』などが評価
1973 江崎玲於奈 物理学賞 半導体及び超電導体トンネル効果についての研究、エサキダイオードの開発
1974 佐藤栄作 平和賞 国を代表して核兵器保有に終始反対し、太平洋地域の平和の安定に貢献、非核三原則が評価
1981 福井謙一 化学賞 電子軌道理論を開拓し、化学反応過程に関する理論の発展に貢献
1987 利根川進 医学・生理学賞 多様な抗体遺伝子が体内で再構成される理論を実証し、遺伝学・免疫学に貢献
1994 大江健三郎 文学賞 「個人的な体験」など個人的な題材を掘り下げることで現代の人間の様相を描いた
2000 白川英樹 化学賞 伝導性高分子の発見と開発を行ない、分子エレクトロニクスの開発
2001 野依良治 化学賞 キラル触媒による不斉水素化反応の研究、有機化合物の合成法発展に寄
2002 小柴昌俊 物理学賞 素粒子ニュートリノの観測による新しい天文学の開拓
田中耕一 化学賞 生体高分子の同定及び構造解析のための手法の開発
2008 南部陽一郎(米国籍)
益川敏英
小林誠
物理学賞 南部理論による素粒子物理学における自発的対称性の破れの発見と、小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献
下村脩 化学賞 緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と生命科学への貢献
2010 鈴木章
根岸英一
化学賞 クロスカップリングの開発
2012 山中伸弥 医学・生理学賞 iPS細胞の開発
2014 天野浩
赤崎勇
中村修二(米国籍)
物理学賞 高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオード(LED)の発明


参考:ノーベル賞受賞者 9人の偉業【TOPページ】(※科学者のみ、2002年まで)
- 国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/


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【3】青色LEDとノーベル賞

 今年ノーベル物理学賞を受賞した青色発光ダイオード(LED)とは一体どのようなものなのでしょうか?
 本節ではLEDが授賞したその理由やその研究の経緯などについて簡単に解説しました。
ノーベル物理学賞、青色LED発明者達に最高の栄誉

 今年のノーベル物理学賞は青色発光ダイオード(LED)の開発で名城大終身教授の赤崎勇さん(85)と名古屋大教授の天野浩さん(54)、米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の中村修二さん(60)が選ばれました。エジソンが白熱電球を発明してから135年、電球や蛍光灯に代わる新たな照明を生み出した現代のエジソン達が最高の栄誉に輝いた形になりました。
名城大終身教授・赤崎勇さん〜強い信念、難問に闘志〜

 赤崎勇さんは鹿児島県知覧町(現南九州市)で生まれました。自著『青い光に魅せられて』などによると、戦時中に少年時代を過ごし、中学生の時は学徒動員で工場に駆り出され、戦後は旧制高校に進み、ボロボロの服をわざと着て、高い精神性を追求する「バンカラ生活」を送ったそうです。京都大に入学してからは友人と一緒に全国を廻る無銭旅行なども楽しんだと言います。小学生の時、父親が買ってくれた鉱物標本を見て結晶の不思議さに魅せられたそうで、青色LEDの開発で鍵を握ったのも、窒化ガリウムの高品質な結晶でした。「後年の私の人生を暗示していた」とのことです。

 赤崎さんが窒化ガリウム結晶の研究に着手したのは1973年で、当時は高品質の結晶を作るのは困難とされていました。だからこそ赤崎さんは興味を持ったそうで、「必ずこの難問を解いてやるんだ」という強い信念で、窒化ガリウムにこだわり続けます。「問題が難しいほど闘志を掻き立てられた。小学生時代から試験は一番難しい問題から手をつけた」。そして、名古屋大の教授だった85年、様々な工夫を重ねた末に高品質の結晶作製に成功し、翌年からは半導体メーカーの豊田合成(愛知県)と共同研究に取り組み、ついに89年に世界で初めて青色LEDの開発に成功します。「赤崎研究室は、できるわけがないとされるものを作ろうとする、怖いもの知らずの情熱集団だった」と、豊田合成でLED事業を統括した顧問の太田光一さん(63)は当時の様子を話します。また、偉大な業績を挙げた背景については、「じっくりと考え抜いた上でゴーイング・マイウエーを貫き、一筋のぶれもなかったからだ」と指摘します。
 赤崎さんは学生に対し、「常に物事を意識的に見るように」と指導しているそうで、たとえば電車を降りて一緒に道を歩いている時、暫くしてから「駅からここまで電柱は何本あったか分かりますか」と聞くのだそうです。もちろん学生に分かるはずがありませんが、そこで、「見えているだけでは物事は分からない。見ようとしてこそ初めて物事は分かってくる」と教えるということです。ただ、手取り足取り教えはしません。「若さはそれ自体が大変なパワー。若い人たちは失敗を経験しながら最後に成功にたどりつけばいい」と言います。
名古屋大教授・天野浩さん〜最後の壁、閃きで突破〜

 天野浩さんは浜松市生まれで、小学生の頃はソフトボールやサッカーに熱中しましたが、捕手やゴールキーパーなど頭脳的だが、余り走らないポジションが得意だったそうです。また、高校時代には数学の問題を解くことに快感を覚え、2年生の時に3年生の教科書と参考書の問題を全て解き終え、どんな問題も必ず解く自信をつけたと言います。そして、名古屋大3年生の時、赤崎勇さんが青色LEDの発明を目指していることを知り、未来のための研究だと直感して研究室の門を叩きます。それは、「誰も成功しておらず非常に挑戦しがいのあるテーマで、自分が一番になれる可能性がある。皆の役に立てる最終製品に近く、非常に分かりやすい」と感じたからだそうです。更に大学院に進学すると、赤崎さんが本命と考えていた手法で窒化ガリウムの結晶作製に挑戦しました。1985年、実験装置の不具合をキッカケに高品質の結晶を作り出すことに成功し、心臓が打ち震えるような感動を覚えたと言います。休日返上で実験に打ち込んだ天野さんを、赤崎さんは没我的奮闘と高く評価します。その一方で天野さんは、「私は赤崎研究室で一番出来の悪い学生だった。先生は自主性を重んじ、適切な判断をして下さった」と述懐しています。

 青色LEDを実現するには電子が多いN型半導体と少ないP型半導体の2種類の結晶を作る必要があるのですが、天野さんはN型を赤崎さんの指導の下で開発した後、最後の壁だったP型に全力を注ぎます。その時、別の研究所で経験した実験や文献をヒントに独自の手法が閃きます。窒化ガリウムに加える物質を従来の亜鉛からマグネシウムに変更し、更に電子ビームを当てることで、88年にP型の作製に成功、翌年には夢の青色LEDがついに実現したのです。
 ちなみに天野研究室の准教授・本田善央(よしお)さん(38)は、「生活の全てが研究のような人。朝7時から夜10時まで研究室にこもり、常にアイデアを練っている」と天野さんのことを語り、また、名城大時代に指導を受けた物質・材料研究機構主任研究員の井村将隆さん(34)は、「いつもニコニコして、落語家のような気さくな先生。実験に3千回失敗した経験談から方向性を間違うことなく研究を続けることの大切さを教わった」と話す。また、天野さんをよく知る京都大教授の川上養一さん(53)は「非常に真面目で熱心な研究者。研究に対する愛情が原動力になっている」と天野さんのことを語ります。
米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授・中村修二さん〜反骨精神で実用化に道〜

 中村修二さんは地方の中堅企業で世界的な業績を挙げた異色の研究者で、会社の方針に従わず、自分がやりたいことに情熱を注ぎ、反骨精神で世界初の青色LEDの製品化を成し遂げました。20年来の付き合いという東工大名誉教授の伊賀健一さん(74)は、「実験の腕が非常によい。他の研究者が出来なかったことをいち早く短時間で成し遂げた能力は偉大だ」と中村さんのことを讃えます。

 愛媛県瀬戸町(現伊方町)の漁村生まれの中村さんは、自著『怒りのブレイクスルー』などによると、少年時代は海や山を駆け回って遊んでばかり、好きな色は故郷の空と海の色でもある青だと言います。また、学校の勉強は暗記物が大の苦手で、理数系が得意だった。アニメ「鉄腕アトム」に登場するお茶の水博士を見て、ロボットや人間の役に立つ装置などを作る科学者に憧れました。大学は徳島大工学部に進学し、大学院生時代に結婚します。就職試験では京セラ(京都市)から内定をもらいましたが、子どもの教育環境などを考え悩んだ揚げ句、自然豊かな徳島に残る道を選び、指導教官の紹介で名前さえ聞いたことがなかったという日亜化学工業に就職します。配属された開発課は自分を入れて三人しかいない小さな部署で予算もなく、古い装置を改造したり壊れた部品を集めたりして殆ど一人で実験装置を作り続けたと言います。また、入社から約10年間でガリウム化合物や赤色LEDなどの製品化に次々に成功し、「絶対に売れる」と会社に指示されて開発した製品でしたが、さっぱり売れず、昇給や昇進はなく、また、論文発表は原則禁止だったため研究者としての実績も残りませんでした。「会社の命令には従わず、自分で考え、好きなことをする」と首を覚悟で自ら決めた目標は、不可能とされていた窒化ガリウムを使った青色LEDの製品化で、製造法の知識を得るために米国の大学に短期留学しました。しかし、論文の実績が殆どないため一人前の研究者として扱ってもらえず、悔しい思いをしたそうです。「こんな奴らに負けてたまるか」と、負けず嫌いの性格に火が付いたと言います。会社からは別の研究に変更するよう何度も文書で指示されましたが、全て無視し、ついに1991年に独自のアイデアで窒化ガリウム結晶を量産する方法を開発、実用化に道を開きました。
青色LEDがノーベル賞に値する理由

 既にご存知の通り、青色LEDを発明した3人の物理学者にスウェーデン王立科学アカデミーから2014年度のノーベル物理学賞が授与されました。LEDは今や一般家庭でも見かけるもので、取り立てて珍しいわけでもありせん。ではなぜこれほどまでに青色LEDが注目されているのでしょうか? ノーベル物理学賞受賞者として青色発光ダイオード(LED)を開発した赤崎勇・名城大教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授が選ばれましたが、彼らが受賞が栄誉を与えられた理由とは何だったのでしょうか?
青色LEDがノーベル賞に値する理由
青色発光ダイオード(LED)
 スウェーデン王立科学アカデミーは公式の授与理由として、赤崎勇、天野浩、中村修二の三名は効率的な青色発光ダイオードを発明し、明るく省エネルギーな白色光源を可能としたと説明しています。つまり、青色LED自体が驚くべき存在なのではなく、青色LEDに伴って可能となった技術こそがノーベル賞授与に当たる審査の基盤となる人類に最大の利益をもたらす発明だとしてノーベル賞が認められた理由なのだということです。研究者たちは青色LEDを用い新しい方法で白光をつくり出すことに成功し、結果的により長命で効率的な代替光源を手にいれたのです。《彼らの発明は革命的なものである。白熱電球は20世紀を灯してきたが、21世紀はLEDランプによって灯されていくだろう》とノーベル賞ホームページに記されています。
 赤色・緑色のダイオードの歴史は長いですが、1990年代前半に赤崎、天野、中村の三人は半導体から青色光を引き出す技術を編み出しました。この青色光は既存の赤・緑のダイオードと混合することで完全な白色を再現できるのです。しかしながら、これまで多くの人達が様々な科学者たちが青色LEDの発明を試み、完全な白光を作り出そうと努力をしてきましたが、30年もの間その試みが成功することはありませんでした。三人による発明後、白光を放出するLEDランプの存在は一般にも浸透していたのですが、技術向上と共にエネルギーの効率もよくなり、提供できるワット数毎のルーメン値も増えています。白光を作り出す新たな方法を青色LEDがもたらしたことは確かですが、真の違いは、LEDが如何に効率的かという部分にあります。LEDは低出力で動かすことができますが、この技術によって電力系統の届かないとされる世界中に位置する150万もの人々に大きなインパクトを与える可能性を意味しているのです。
青色LEDへのノーベル賞授与はなぜ今だったのか?

 青色LEDがノーベル賞に値すると判断された理由は、一言で言えば、それが既存の照明を凌駕する21世紀の照明がこれによって実現可能になったため、です。

 赤崎氏、天野氏、中村氏による青色LEDの発明については、実は何年も前からノーベル賞の受賞を期待する声があり、これまでは毎年受賞を逃してがっかりするの繰り返しだったのです。では、なぜ今年は受賞できたのでしょうか。それは、スウェーデン王立科学アカデミーが発表した正式な受賞理由を見ると分かります。受賞理由の冒頭には、《高輝度で省エネルギーにつながる白色照明光源となる青色LEDの発明》とありますが、これを一部報道にあるように「青色LEDの発明」と省略した形で報道してしまうと、なぜ今年の受賞だったのかが分かりにくくなるわけです。青色LEDの発明の波及効果としてブルーレイ・ディスクなどを挙げるニュースもありますが、もちろん間違いではないものの、受賞理由としては少々的外れかも知れません。今年受賞できたのは、既存の照明を凌駕する高輝度で省エネルギーのLED照明が正にこの1〜2年で実現可能になってきたからでしょう。白熱灯の発光効率は15〜20lm/W、蛍光灯は器具込みで60〜100lm/Wで、これに対して暫くはLED照明の器具込みの発光効率(器具効率)は蛍光灯と大差がない水準でした。これでは、残念ながら《20世紀は白熱電球が照らした。21世紀はLEDが照らす》(スウェーデン王立科学アカデミー)とまでは言えません。なぜなら、それだけならば蛍光灯でも充分だからです。LED照明の器具込みの発光効率(器具効率)が100lm/Wを大きく超えるようになったのは、2013年頃からで、一部のLED照明製品の器具効率は2014年前半には140〜190lm/Wと急速に高まり、蛍光灯を遙かに超えるようになり、中には器具効率で200lm/Wに達した開発例も出ています。スウェーデン王立科学アカデミーが触れたように、LED素子としては300lm/Wを超える米Cree社の開発例も2014年になって出てきましたが、これらの開発によって初めて「21世紀の照明」といえる段階になったわけなのです。
青色LEDの産官学モデルが上手くいった理由

 青色LEDの開発は、国内の科学技術政策担当者や大学関係者から「戦後最大の成功モデル」と評されています。それは、単に照明、携帯電話やテレビのバックライト、信号機といった応用分野の広さだけが理由ではありません。それが大学の基礎研究で生まれた技術シーズを国内の企業に移転し、産業化に結びつけたお手本のような事例だからです。
過去最大の特許実施収入

 総額56億円。中央官庁が産業育成などを議論する場でたびたび登場するこの数字は、青色LEDの基礎研究に関わる赤崎氏の特許から、同氏がかつて所属した名古屋大を含む国が得た実施料収入を示しています。調査が行なわれた06年時点で国有特許の実施料収入の実に約9割を青色LEDが占めていた計算になります。その恩恵に与る名古屋大もまた、国内大学の特許収入ランキングで長く首位に立ってきました。

 ここでひとつ注意が必要なのは、赤崎氏の特許に絡んで国に入った実施料収入の大半は、豊田合成による製品化によって得られた資金である点です。現在LED素子メーカーとして最大手の日亜化学工業は中村氏の開発した基礎技術を下に実用化を進めており、国に特許収入は入っていません。とはいえ、何れにしても、国や大学が主導する研究において単一のテーマでここまで大きな特許収入が得られた事例はこれまでに存在しないことも事実です。もちろん国の研究開発において特許収入だけが重要であるわけではありません。しかしながら、その金額が、基礎研究が実際に社会の役に立ったことを示す端的な指標であることは確かです。知的財産から大きな資金が生まれれば、それは次世代の研究開発の原資ともなるのです。
 青色LEDが成功モデルになりえた要因は幾つかあります。第一に、海外勢を含め多くの競合する研究者や企業が開発を断念する中、国内のメーカーや大学研究者が粘り強く研究を続けたことが挙げられます。LEDでは、光の三原色のうち赤や緑は1960年代に出来ましたが、残る青色で赤崎氏らが初めて成功したのは、それから20年以上を経た1989年のことでした。
問われる国や大学の力量

 さらに、公的機関による支援も機能しました。赤崎氏の成果を豊田合成に移転するプロセスでは、科学技術振興機構(JST)の前身である新技術開発事業団が豊田合成と共に赤崎氏に働きかけ、JSTの委託開発プロジェクトの一環として実用化を進めたのです。JSTが委託開発のスキームを始めたのは1950年代のことであり、もちろん全てが順調に進んでいるわけではありません。それでも、国が上手く関与すれば産業化を助けられる証左にはなったわけです。大学の技術シーズを上手く産業移転した成功事例として、青色LEDのノーベル賞受賞は、これまでの日本人研究者の受賞とはひと味違った価値があると言えるでしょう。
 しかし、問題はこれからです。成功モデルは、何度も繰り返せる「仕組み」に昇華できなければ偶然の産物で終わってしまうからです。大手企業の業績不振や自前主義からの脱却、大学発ベンチャーの台頭など、企業も大学もこれまでにない変化に晒されています。青色LEDを開発した頃とは違い、企業や大学も長期的なテーマに取り組める余裕はなくなってきているのです。東京工業大学の細野秀雄教授が生み出した酸化物半導体IGZOなど第2の青色LEDとして期待される次の種は確実に存在します。環境激変の中で、基礎研究と産業を結ぶ仕組みを機能させ続けることが必要になるでしょう。
参考:参考図書と情報


◆参考図書
池上彰『ノーベル平和賞で世の中がわかる』マガジンハウス
池上彰・編
『ノーベル平和賞で世の中がわかる』
マガジンハウス、2012年10月・1,500円
毎年、秋になると、「今年のノーベル平和賞は誰だろう」と話題になります。誰もが「受賞して当然」と考える人物が選ばれることもあれば、多くの人が首を傾ける選考結果もあります。ただ、この111年の歴史を見ると、地上から戦争や紛争、貧困、疾病をなくそうと闘ってきた人々の努力が見えてきます。ノーベル平和賞の歴史は、20世紀から21世紀にかけての現代史そのものでもあるのです。
朝日新聞出版『日本にノーベル賞が来る理由』朝日新書
朝日新聞出版・著
『日本にノーベル賞が来る理由』
朝日新書152、
朝日新聞出版、2008年12月刊・700円
日本にノーベル賞ラッシュがやって来た!快挙の背景には国際社会の明確な意思がある。「対称性の破れ」とその「回復」をキーワードに、湯川秀樹以来の16人の受賞者を検証。原爆、核開発からポスト冷戦後まで、パワーポリティクスを鮮やかに読み解き、日本の進むべき道を指し示す。世界の研究と開発を左右する、「最高権威」ノーベル財団の戦略とは。
マララ・ユスフザイ『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』岩崎書店
マララ・ユスフザイ+パトリシア・マコーミック・著
『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』
岩崎書店、2014年10月刊・1,700円
ノーベル平和賞受賞後最新刊!武装勢力タリバンに銃撃された少女マララの手記。若い読者に向けての書きおろし。小学校高学年から一般。
益川敏英『ノーベル物理学者が教える「自分力」の磨き方 眠っている己の才能に気づくヒント』ブックマン社
益川敏英・著
『ノーベル物理学者が教える「自分力」の磨き方 
眠っている己の才能に気づくヒント』
知と学びのシリーズ、
ブックマン社、2014年10月刊・1,300円
日本の未来を左右する独創性はどうしたら生まれるのか?ノーベル賞受賞の鬼才が、今だから伝えたいメッセージ。
参考:日本人ノーベル賞受賞者と関係図書
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/worldlit/nobel-j.htm


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