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今日2019年4月1日新元号が「令和」に決まりました。
30年続いた『平成』も 2019年4月いっぱいで「令和」に引き継がれます。
今回は2019年4月30日に天皇陛下が退位されることにより元号が変わります。すなわち譲位での引き継ぎになり、いろいろ話題になりました。元号の変更は歴代の天皇は崩御されることにより突然変わるものでした。
元号の新たな引き継ぎもわずか一か月を切り、じっくりとそのひと月最後の平成を過ごすとともに新たな元号に備えましょう。


平成から新元号「令和」
【1】元号とは
【2】平成で何が変わったか
【2】時代の変革期平成
【4】今回の新元号切り替えの意義

 
【1】元号とは
  元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われます。 元号は20世紀までは本家本元の中国やその周辺国(日本・朝鮮・ベトナム)で使用されていたが、元号を使用する各王朝が革命や併合で消滅していったこともあって、21世紀の現在では、伝統的な元号を使用しているのは日本のみとなっています。

元号の起源

元号の起源は、過去の中国の王朝・前漢の武帝が紀元前115年頃に自らの治世の当初に遡って「建元」という元号を定めたのが元号使用の始まりでといわれています。中国王朝において皇帝は時間と空間を支配する大権を持っているとされており、空間は「領土」の支配を意味し時間は「暦」すなわち「元号」の支配を意味していた。この考えが、一国を支配する正当性ともなり中国周辺諸国にも伝わりました。過去には日本以外にも、ベトナムや朝鮮半島なども元号を取り入れていた時期があります。
日本で最初の元号は、大化元年(645年)第36代・孝徳天皇が即位した際に定められました。それ以前にも第26代・継体天皇の時代に善記の元号があり、内々には既に用いられていたことがありましたが、広くは使われてはいませんでした。大化6年(650年)に改元があって白雉といったとなりました。その後記録が途絶えている時期がありますが、天武天皇の時代に元号を建てて朱鳥元年と定められ、第41代・持統天皇の時代まで用いられ続けた。また朱鳥が使われなくなってから文武天皇5年3月(701年)に大宝と元号が定められてより、それより日本では一度も絶えることなく元号が使用され続けています。
公的に大化が建定されてから一般にも元号が使われるようになったのでのです。 それから「平成」にいたるまで247の元号が使われてきました(事項記載)。
以前は、まつりごとや天災などが起きた時など一代の中でも改元は概してしばしば行われてきましたが。明治以後は「一世一元」、つまり、ひとりの天皇についてひとつの元号に限るため、改元は天皇の御代替わりの際にしか行われないものとなってました。

日本の元号一覧
飛鳥
大化 たいか 645 649
白雉 はくち 650 654
朱鳥 しゅちょう 686
大宝 たいほう 701 703
慶雲 けいうん 704 707
奈良
和銅 わどう 708 714
霊亀 れいき 715 716
養老 ようろう 717 723
神亀 じんき 724 728
天平 てんぴょう 729 748
天平感宝 かんぽう 749 756
天平勝宝 しょうほう 749 756
天平宝字 ほうじ 757 764
天平神護 じんご 765 766
神護景雲 けいうん 767 769
宝亀 ほうき 770 780
天応 てんのう 781
平    安
延暦 えんりゃく 782 805
大同 だいどう 806 809
弘仁 こうにん 810 823
天長 てんちょう 824 833
承和 じょうわ 834 847
嘉祥 かしょう 848 850
仁寿 にんじゅ 851 853
斉衡 さいこう 854 856
天安 てんあん 857 858
貞観 じょうがん 859 876
元慶 がんぎょう 877 884
仁和 にんな 885 888
寛平 かんぴょう 889 897
昌泰 しょうたい 898 900
延喜 えんぎ 901 922
延長 えんちょう 923 930
承平 じょうへい 931 937
天慶 てんぎょう 938 946
天暦 てんりゃく 947 956
天徳 てんとく 957 960
応和 おうわ 961 963
康保 こうほう 964 967
安和 あんな 968 969
天禄 てんろく 970 972
天延 てんえん 973 975
貞元 じょうげん 976 977
天元 てんげん 978 982
永観 えいかん 983 984
寛和 かんな 984 986
永延 えいえん 987 988
永祚 えいそ 989
正暦 しょうりゃく 990 994
長徳 ちょうとく 995 998
長保 ちょうほ 999 1003
寛弘 かんこう 1004 1011
長和 ちょうわ 1012 1016
寛仁 かんにん 1017 1020
治安 じあん 1021 1023
万寿 まんじゅ 1024 1027
長元 ちょうげん 1028 1036
長暦 ちょうりゃく 1037 1039
長久 ちょうきゅう 1040 1043
寛徳 かんとく 1044 1045
永承 えいしょう 1046 1052
天喜 てんぎ 1053 1057
康平 こうへい 1058 1064
治暦 じりゃく 1065 1068
延久 えんきゅう 1069 1073
承保 しょうほう 1074 1076
承暦 しょうりゃく 1077 1080
永保 えいほ 1081 1083
応徳 おうとく 1084 1086
寛治 かんじ 1087 1093
嘉保 かほう 1094 1095
永長 えいちょう 1096
承徳 しょうとく 1097 1098
康和 こうわ 1099 1103
長治 ちょうじ 1104 1105
嘉承 かじょう 1106 1107
天仁 てんにん 1108 1109
天永 てんえい 1110 1112
永久 えいきゅう 1113 1117
元永 げんえい 1118 1119
保 安 ほうあん 1120 1123
天治 てんじ 1124 1125
大治 たいじ 1126 1130
天承 てんしょう 1131
長承 ちょうしょう 1132 1134
保延 ほうえん 1135 1140
永治 えいじ 1141
康治 こうじ 1142 1143
天養 てんよう 1144
久安 きゅうあん 1145 1150
仁平 にんぴょう 1151 1153
久寿 きゅうじゅ 1154 1155
保元 ほうげん 1156 1158
平治 へいじ 1159
永暦 えいりゃく 1160
応保 おうほ 1161 1162
長寛 ちょうかん 1163 1164
永万 えいまん 1165
仁安 にんあん 1166 1168
嘉応 かおう 1169 1170
承安 じょうあん 1171 1174
安元 あんげん 1175 1176
治承 じしょう 1177 1180
養和 ようわ 1181
鎌   倉
寿永 じゅえい 1182 1184
元暦 げんりゃく 1184
文治 ぶんじ 1185 1189
建久 けんきゅう 1190 1198
正治 しょうじ 1199 1200
建仁 けんにん 1201 1203
元久 げんきゅう 1204 1205
建永 けんえい 1206
承元 しょうげん 1207 1210
建暦 けんりゃく 1211 1212
健保 けんぽ 1213 1218
承久 じょうきゅう 1219 1221
鎌   倉
貞応 じょうおう 1222 1223
元仁 げんにん 1224
嘉禄 かろく 1225 1226
安貞 あんてい 1227 1228
寛喜 かんぎ 1229 1231
貞永 じょうえい 1232
天福 てんぷく 1233
文暦 ぶんりゃく 1234
嘉禎 かてい 1235 1237
暦 仁 りゃくにん 1238
延応 えんのう 1239
仁治 にんじ 1240 1242
寛元 かんげん 1243 1246
宝治 ほうじ 1247 1248
建長 けんちょう 1249 1255
康元 こうげん 1256
正嘉 しょうか 1257 1258
正元 しょうげん 1259
文応 ぶんおう 1260
弘長 こうちょう 1261 1263
文永 ぶんえい 1264 1274
建治 けんじ 1275 1277
弘安 こうあん 1278 1287
正応 しょうおう 1288 1292
永仁 えいにん 1293 1298
正安 しょうあん 1299 1301
乾元 けんげん 1302
嘉元 かげん 1303 1305
徳治 とくじ 1306 1307
延慶 えんきょう 1308 1310
応長 おうちょう 1311
正和 しょうわ 1312 1316
文保 ぶんぽ 1317 1318
元応 げんおう 1319 1320
元亨 げんこう 1321 1323
正中 しょうちゅう 1324 1325
嘉暦 かりゃく 1326 1328
元徳 げんとく 1329 1330
元弘 げんこう 1331 1333
南   朝
元徳 げんとく 1329 1331
正慶 しょうきょう 1332 1333
建武 けんむ 1334 1337
暦応 りゃくおう 1338 1341
康永 こうえい 1342 1344
貞和 じょうわ 1345 1349
観応 かんのう 1350 1351
文和 ぶんな 1352 1355
延文 えんぶん 1356 1360
康安 こうあん 1361
貞治 じょうじ 1362 1367
応安 おうあん 1368 1374
永和 えいわ 1375 1378
康暦 こうりゃく 1379 1380
永徳 えいとく 1381 1383
至徳 しとく 1384 1386
嘉慶 かきょう 1387 1388
康応 こうおう 1389
室   町
明徳 めいとく 1390 1393
応永 おうえい 1428
永享 えいきょう 1429 1440
嘉吉 かきつ 1441 1443
文安 ぶんあん 1444 1448
宝徳 ほうとく 1449 1451
康正 こうしょう 1455 1456
長禄 ちょうろく 1457 1459
寛正 かんしょう 1460 1465
文正 ぶんしょう 1466
応仁 おうにん 1467 1468
文明 ぶんめい 1469 1486
長享 ちょうきょう 1487 1488
延徳 えんとく 1489 1491
明応 めいおう 1492 1500
文亀 ぶんき 1501 1503
永正 えいしょう 1504 1520
大永 たいえい 1521 1527
享禄 きょうろく 1528 1531
天文 てんぶん 1532 1554
弘治 こうじ 1555 1557
永禄 えいろく 1558 1569
元亀 げんき 1570 1572
安土・桃山
天正 てんしょう 1573 1591
文禄 ぶんろく 1592 1595
江   戸
慶長 けいちょう 1596 1614
元和 げんな 1615 ~    1623
寛永 かんえい 1624 1643
正保 しょうほ 1644 1647
慶安 けいあん 1648 1651
承応 じょうおう 1652 1654
明暦 めいれき 1655 1657
万治 まんじ 1658 1660
寛文 かんぶん 1661 1672
延宝 えんぽう 1673 1680
天和 てんな 1681 1683
貞享 じょうきょう 1684 1687
元禄 げんろく 1688 1703
宝永 ほうえい 1704 1710
正徳 しょうとく 1711 1715
享保 きょうほう 1816 1735
元文 げんぶん 1736 1740
寛保 かんぽう 1741 1743
延享 えんきょう 1744 1747
寛延 かんえん 1748 1750
宝暦 ほうれき 1751 1763
明和 めいわ 1764 1771
安永 あんえい 1772 1780
天明 てんめい 1781 1788
寛政 かんせい 1789 1800
享和 きょうわ 1801 1803
文化 ぶんか 1804 1817
文政 ぶんせい 1818 1829
天保 てんぽう 1830 1843
弘化 こうか 1844 1847
嘉永 かえい 1848 1853
安政 あんせい 1854 1859
万延 まんえん 1860
文久 ぶんきゅう 1861 1863
元治 げんじ 1864
慶応 けいおう 1865 1867

近代元号
近   代 言語の意味
明  治 めいじ 1868 1912 明示の由来:『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」というこの言葉より、「天地と徳を等しくする天子が、明るい方向に向かって天下を察し治める。 」
大  正 たいしょう 1912 1926 「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から、「すべてとどこおりなく順調にはこんで正しさを得るのは、天道の自然である。」
昭  和 しょうわ 1926 1988 「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」による。漢学者・吉田増蔵の考案。「役人に政治を公平におこなわせ、次に諸国を仲善くさせ、天下の庶民は心やさしくなる。 」
平  成 へいせい 1989 2019 『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。「天下の水陸共に平穏となり、万物はそれぞれの成育を遂げる。 」

近代元号について

明治時代に元号の改定は天皇の即位からその死までを一つの年号とする制度一世一元制度になり、枢密顧問に諮問した後に、これを天皇が裁可することとなりました。
戦後になって帝国憲法から新憲法に変わると、皇室典範も改められ、元号は法的な根拠が危うくなった。日本の元号は法的根拠を失ったが、同様に根拠のない西暦を使う習慣はあまり普及せず、「昭和」という元号は官民問わず使われ続けた。それに伴い昭和54年(1979年)に「元号法」が制定され、これによって元号の制定方法が定められた。この法律も一世一元の制を踏襲しており、平成の元号はこの法律を根拠に制定されたものである。

元号法
 第1項:元号は、政令で定める。
 第2項:一世一元の制 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
 ★元号が法律で定められたことにより公に利用されるということに意味合いがあります。

昭和の次の平成という年号は、元号法の制度に基づいて、天皇ではなく、内閣によって定められた。昭和天皇の死によって「昭和」という元号も終り、次の元号の選定はまさに民主主義的な手続きで「平成」移行したのです。平成に変わってからでも民間では西洋の紀年法である西暦の使用が増えていったが公文書に関しては和暦(元号)を義務付ける法令はないことから、公的文書でも元号・西暦が併記するものが多くなっており、政府も平成31年(2019年)5月1日の新元号施行に際して公文書に書かれる年号(元号・西暦)表記を各省庁や地方自治体の判断にゆだねるとの決定を下している(日本経済新聞より)。

元号の決め方

今回は上天皇の生前退位にともない、新たな元号が定められようとしてことになり。天皇の死を以て元号を変えるという一世一元の制度があることなどから、いろいろと論議されたが、2019年4月1日元号発表 4月30日天皇退位 5月1日新天皇即位新元号がスタートする予定になりました。

今回の具体的手順

1  候補名の考案
 (1) 内閣総理大臣は、高い識見を有する者を選び、これらの者に次の元号にふさわしい候補名の考案を委嘱する。
 (2) 候補名の考案を委嘱される者の数は、若干名とする。
 (3) 内閣総理大臣は、各考案者に対し、およそ2ないし5の候補名の提出を求めるものとする。
 (4) 考案者は、候補名の提出に当たり、各候補名の意味、典拠等の説明を付するものとする。
2  候補名の整理
 (1) 総理府総務長官は、考案者から提出された候補名について、検討し、及び整理し、その結果を内閣総理大臣に報告する。
 (2) 総理府総務長官は、候補名の検討及び整理に当たっては、次の事項に留意すること。ア 国民の理想としてふさわしいようなよい意味をもつものであること。
 イ 漢字2字であること。
 ウ 書きやすいこと。
 エ 読みやすいこと。
 オ これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと。
 カ 俗用されているものでないこと。
さらにこのようなことも条件になっているとか
 ・常用漢字を使う
 ・一文字の画数は多くても12~15画
 ・頭文字は(明治=M 大正=T 昭和=S 平成=H )は使わない
 ・民間の元号ランキングの上位はなるべく避ける
 ・人名に多い2文字は避ける
 ・大企業と同じ名称は使わない
3  原案の選定
 (1) 内閣総理大臣の指示により、内閣官房長官、総理府総務長官及び内閣法制局長官による会議において、総理府総務長官により整理された候補名において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。
 (2) 全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。また、内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院及び参議院の議長及び副議長である者に連絡し、意見を伺う。
4  新元号の決定
 閣議において、改元の政令を決定する。
5. 元号発表.2019年4月1日 官房長官が発表

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【2】平成で何が変わったか
 平成の30年間新元号になって初めて戦争の無かった時代でもありますいが、良い事悪い事いろいろな事があり、いろいろな変動、変化がありました。今までおこったことが無い変化の元号、平成はどんな時代だったか振り返ってみたいと思います。

明治時代から昭和時代は
明治時代
1868年から1912年までの44年間。
幕末の黒船来航後の開国・新政府が樹立され、都が京都から江戸・東京へと移された。廃藩置県などで国の有り方を変え明治維新として欧米諸国を模範とした国内の近代化などが行われた。清やロシアとの戦争を経験し、日本はこの時代に大きく躍進した事は間違いないが、後の大戦への歩みを始めてしまった時代でもある。

大正時代
1912年1925年までの15年間です。世論が政府を動かす時代に変化し、大正デモクラシーによる普通選挙運動や社会主義運動、労働運動、女性解放運動などの社会運動が活発になりました。文化面でも「大正ロマン」と呼ばれ服装や建築などにおいて日本本来の文化と西洋の文化を融合させた和洋折衷が流行しとタ時代です。

昭和時代(戦前)
昭和の始まりと共に世界的な恐慌となるその中日本は世界的に孤立して。、第二次世界大戦に突入してしまう。多くの犠牲者や国土の荒廃を生み戦後時代に突入占領軍であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に統制され人々は食べ物にすら苦労する生活を強いられるが、復興の道を突き進んでいく。
朝鮮戦争による戦時特需の増加などもあり、戦後の復興は急速に進んでいった。その経済発展は世界にも例がない程であった。昭和40年代の高度経済成長を経て、日本は一時期、世界第二位の経済大国となったのだ。そして時代はバブル時代に突入、絶頂期を迎えたに思えたがあえなくバブルは崩壊して低成長時代に突入したのである。そして平成を迎えるのである。

平成の経済


 平成の国内総生産(GDP)成長率をみると、バブル景気で幕開けこそ活況を呈したものの、その後は「失われた20年」とも呼ばれる低迷が続いた。経済政策「アベノミクス」も第2次政権発足時に掲げた10年間の平均の成長率目標「名目3%、実質2%」を実現する見通しはなかなか立たない。日本経済の再生は道半ばといえそうだ。戦後最長の景気拡大期である「いざなみ景気」(14年2月~20年2月)の間の14年度から19年度の実質成長率も最大で2.0%しかなく、世界経済における日本の存在感は大きく後退した。

 そこに追い打ちをかけたのが20年9月のリーマン・ショックだ。20年度の実質成長率はマイナス3.4%まで落ち込み、21年度もマイナス2.2%と苦境が継続。反動増でいったん回復したものの、東日本大震災直後の23年度には、東京電力福島第1原発事故による電力不足の影響もあり、再び0.5%まで水準が低下した。
 世界経済では、中国の躍進により経済のバランスが大きく変化して、日本の立ち位置がさらに厳しくなっていくと思われる。



出展 産経新聞社

政治問題
 昭和の時代は高度成長がストップした経済問題にともない、イケイケどんどんでよかった政治がトン材していく時代でもあった。それは政治改革のなのもとに政治不信が根底となって激動の政治時代に突入していくことになる。その第一弾は昭和の最末期に起きたリクルート・スキャンダルであった。この事件では、ほとんどすべての自民党の有力政治家、そして一部の野党の有力議員までが連座。業界の利権と政治資金との歯止めのない結びつきが明らかになった。一党支配であった自民党の利益誘導政治、派閥政治、族議員の政治不信に結びつき、混沌とした次弾を切り開けるリーダーシップの欠如、二より拡大。その後、政治改革をめぐって自民党内部、権力闘争が顕在化、細川護熙首相率いる非自民の連立政権の発足につながる。
 二大政党制を旗印に選挙制度が中選挙区制から、小選挙区制と比例代表制とを組み合わせた新しい選挙制度(小選挙区比例代表並立制)が、政治と政治家の脆弱化を生んでいく、短期政権や決められない政治となってずっと尾をひいていくことになる。。
平成時代の政治改革のもうひとつの焦点は政官関係だった。別言すれば、政治主導と政治的リーダーシップをどう確保するかであった。
 1990年代、官庁のトップと目されてきた旧大蔵省がスキャンダルに揺れ、あるいはバブル崩壊への対応に失敗するなか、世論の官僚に対する視線は厳しさを増し、「官僚バッシング」へとエスカレートした。90年代の末に、当時の橋本龍太郎首相を議長とする行政改革会議が立ち上がり、それまでの常識を覆すほどの大きな改革案を取りまとめたことは、昭和時代の「政官融合体制」が大きく変質したことを物語っていた。
 具体的には、1府12省庁体制への大幅な組織再編、首相ならびに内閣を補佐するための内閣官房の強化と内閣府の新設などが実現されたのである。
中途でしぼんだ国会改革

 かくして政府の行政機構の「かたち」の改革は相当な進展があった。しかし、統治の仕組みそのものの改革は、順調に進んだとは言えない。行政改革に加えて橋本内閣が試みた財政・公共事業改革は途中で頓挫した。

 1998年7月の参議院選挙で自民党が大敗を喫すると、自由党を率いていた小沢一郎氏が自民党との連立の条件として国会改革を持ち出した。その結果、自自連立のもと政府委員制度の廃止や副大臣と政務官の設置が実現されたが、自民党が自由党から公明党との連立に乗り換え、それを安定させることに成功すると、こうした国会改革の機運も急速にしぼんでいった。
「小泉革命」、そして政権交代

2005年の郵政解散で記者会見する小泉純一郎首相=2005年8月8日、首相官邸
拡大2005年の郵政解散で記者会見する小泉純一郎首相=2005年8月8日、首相官邸

 次なる政治改革は、いわゆる「小泉革命」である。2001年に政権を奪取した小泉純一郎首相は日本政治のあり方に大きなインパクトを与えた。党内力学より国民の支持を重視し、橋本行革で設置された経済財政諮問会議を動かし、民間主導の改革を進めた。また選挙制度改革で強化された執行部の権力を駆使し、総選挙では公認権限を最大限に活用した。

 いわば、小泉首相自身の個人的なリーダーシップと、1990年代以来の選挙制度改革や橋本行革などの制度的な改革の成果とがハイブリッドされたのが、「小泉革命」と言っていいだろう。

 ただ、この改革によって自民党内には様々な亀裂が生じた。小泉首相が退場すると、自民党内には「改革疲れ」とも言うべきムードが生まれていた。他方、その裏側では、民主党という対抗政党が大きな政治改革のプログラムを掲げて、ひたひたと勢力を拡大した。

 2009年8月の総選挙で念願の政権交代を実現した民主党は、政治制度・構造に関する包括的な改革の提案を掲げる一方、予算配分についても公共工事中心から脱却して「ひと」への投資を優先するという方針を打ち出した。言い換えれば、55年体制のもとでの政治システムを徹底的に打破することが目標とされたのである。
行政・選挙制度改革が生んだ「安倍一強」

 しかし、民主党政権によるこうした改革提案は、ほとんど頓挫することとなった。背景に、民主党自体の統合力の弱さと脆弱さ、政権運営のノウハウの欠如、官僚との不用意な対立といった問題があったのは確かである。しかし、同時に国会対応の難しさも足かせになった。とりわけ2010年7月参議院選挙の結果、衆議院と参議院の多数派が異なる状態、いわば「ねじれ」の状態に陥って以降、与野党間の駆け引き、くわえて民主党内部の対立が深刻となり、改革の推進どころではなくなった。

 そんな民主党を世論は見放し、自民党が政権の座に復帰。安倍晋三氏が首相に返り咲き、第2次安倍政権が成立した。安倍政権は、90年代以降の行政改革がもたらした官邸主導・首相主導の体制、徐々に効果を発揮してきた選挙制度改革の成果を最大限いかし、「自民一強」「安倍一強」と呼ばれる昨今の状況をつくりだしたのである。
野中尚人氏 朝日新聞出典
内閣 成立年月日 終了年月日 内閣総理大臣 与党
75 宇野内閣 1989年(平成元年)6月3日 1989年(平成元年)8月10日 宇野宗佑 自由民主党
76 第1次海部内閣 1989年(平成元年)8月10日 1990年(平成2年)2月28日 海部俊樹 自由民主党
77 第2次海部内閣 1990年(平成2年)2月28日 1990年(平成2年)12月29日 自由民主党
改造内閣 1990年(平成2年)12月29日 1991年(平成3年)11月5日
78 宮澤内閣 1991年(平成3年)11月5日 1992年(平成4年)12月12日 宮澤喜一 自由民主党
改造内閣 1992年(平成4年)12月12日 1993年(平成5年)8月9日
79 細川内閣 1993年(平成5年)8月9日 1994年(平成6年)4月28日 細川護熙 日本新党・日本社会党・新生党・公明党・新党さきがけ・民社党・社会民主連合・民主改革連合(参院)
80 羽田内閣 1994年(平成6年)4月28日 1994年(平成6年)6月30日 羽田孜 新生党・日本新党・民社党・自由党・公明党・社会民主連合・改革の会
閣外協力:新党さきがけ・新党みらい
81 村山内閣 1994年(平成6年)6月30日 1995年(平成7年)8月8日 村山富市 日本社会党・自由民主党・新党さきがけ
改造内閣 1995年(平成7年)8月8日 1996年(平成8年)1月11日
82 第1次橋本内閣 1996年(平成8年)1月11日 1996年(平成8年)11月7日 橋本龍太郎 自由民主党・日本社会党/社会民主党・新党さきがけ
83 第2次橋本内閣 1996年(平成8年)11月7日 1997年(平成9年)9月11日 自由民主党
閣外協力:社会民主党・新党さきがけ
改造内閣 1997年(平成9年)9月11日 1998年(平成10年)7月30日 自由民主党
閣外協力:社会民主党・新党さきがけ(1998年(平成年)6月まで)
84 小渕内閣 1998年(平成10年)7月30日 1999年(平成11年)1月14日 小渕恵三[17] 自由民主党
第1次改造内閣 1999年(平成11年)1月14日 1999年(平成11年)10月5日 自由民主党・自由党
第2次改造内閣 1999年(平成11年)10月5日 2000年(平成12年)4月5日 自由民主党・自由党/保守党・公明党
85 第1次森内閣 2000年(平成12年)4月5日 2000年(平成12年)7月4日 森喜朗 自由民主党・公明党・保守党
86 第2次森内閣 2000年(平成12年)7月4日 2000年(平成12年)12月5日 自由民主党・公明党・保守党
改造内閣 2000年(平成12年)12月5日 2001年(平成13年)1月6日
(省庁再編前)
改造内閣 2001年(平成13年)1月6日 2001年(平成13年)4月26日
(省庁再編後)
87 第1次小泉内閣 2001年(平成13年)4月26日 2002年(平成14年)9月30日 小泉純一郎 自由民主党・公明党・保守党
第1次改造内閣 2002年(平成14年)9月30日 2003年(平成15年)9月22日 自由民主党・公明党・保守党/保守新党
第2次改造内閣 2003年(平成15年)9月22日 2003年(平成15年)11月19日 自由民主党・公明党・保守新党
88 第2次小泉内閣 2003年(平成15年)11月19日 2004年(平成16年)9月27日 自由民主党・公明党
改造内閣 2004年(平成16年)9月27日 2005年(平成17年)9月21日
89 第3次小泉内閣 2005年(平成17年)9月21日 2005年(平成17年)10月31日 自由民主党・公明党
改造内閣 2005年(平成17年)10月31日 2006年(平成18年)9月26日
90 第1次安倍内閣 2006年(平成18年)9月26日 2007年(平成19年)8月27日 安倍晋三 自由民主党・公明党
改造内閣 2007年(平成19年)8月27日 2007年(平成19年)9月26日
91 福田康夫内閣 2007年(平成19年)9月26日 2008年(平成20年)8月2日 福田康夫 自由民主党・公明党
改造内閣 2008年(平成20年)8月2日 2008年(平成20年)9月24日
92 麻生内閣 2008年(平成20年)9月24日 2009年(平成21年)9月16日 麻生太郎 自由民主党・公明党
93 鳩山由紀夫内閣 2009年(平成21年)9月16日 2010年(平成22年)6月8日 鳩山由紀夫 民主党・社会民主党(2010年(平成22年)5月まで)・国民新党
94 菅内閣 2010年(平成22年)6月8日 2010年(平成22年)9月17日 菅直人 民主党・国民新党
第1次改造内閣 2010年(平成22年)9月17日 2011年(平成23年)1月14日
第2次改造内閣 2011年(平成23年)1月14日 2011年(平成23年)9月2日
95 野田内閣 2011年(平成23年)9月2日 2012年(平成24年)1月13日 野田佳彦 民主党・国民新党
第1次改造内閣 2012年(平成24年)1月13日 2012年(平成24年)6月4日
第2次改造内閣 2012年(平成24年)6月4日 2012年(平成24年)10月1日
第3次改造内閣 2012年(平成24年)10月1日 2012年(平成24年)12月26日
96 第2次安倍内閣 2012年(平成24年)12月26日 2014年(平成26年)9月3日 安倍晋三 自由民主党・公明党
改造内閣 2014年(平成26年)9月3日 2014年(平成26年)12月24日
97 第3次安倍内閣 2014年(平成26年)12月24日 2015年(平成27年)10月7日 自由民主党・公明党
第1次改造内閣 2015年(平成27年)10月7日 2016年(平成28年)8月3日
第2次改造内閣 2016年(平成28年)8月3日 2017年(平成29年)8月3日
第3次改造内閣 2017年(平成29年)8月3日 2017年(平成29年)11月1日
98 第4次安倍内閣 2017年(平成29年)11月1日 2018年(平成30年)10月2日 自由民主党・公明党
改造内閣 2018年(平成30年)10月2日

Wikipediaより

財政問題
以前問題になっていた財政問題は余り国会やマスコミでも取り合得られなくなってきてしまっている。その間にも国の借金は増え続けている。
その金額は国民一人当たり700万円を超えてしまっている。平成の時代に増えたこの借金をどうしていくかも次の年号への課題となる。


令和元年の国の予算の基本的な規模を示す一般会計の歳出総額は101兆4564億円と、18年度当初予算(97兆7128億円)を3兆7437億円上回り、当初予算として初の100兆円を超えた。さらなる積み増しが現実的に起きていることを認識しておきましょう。

人口問題


日本の総人口は、幕末から近年に至るまでほぼ一貫して増加し続けてきたが、少子高齢化の影響により1970年代の後半以降、人口増加率は低下した。2004(平成16)年から2005(平成17)年の人口増加率はついにマイナスを記録し、それ以降も横ばいで推移しており、人口減少局面を迎えている。今後も日本の総人口は急速に減少し、2060年には人口が9000万人を割り込むと推計されている。さらに、今後の日本の総人口は急速に減少していくものと推計されている。
国立社会保障・人口問題研究所が2012(平成24)年1月に公表した将来人口推計によると、今後日本の人口は減少する見通しであり、2010(平成22)年国勢調査による1億2,806万人から、2030(平成42)年に1億1,662万人となり、2048(平成60)年には1億人を割って9,913万人となり、2060(平成72)年には8,674万人になるものと推計される(ただし、出生中位・死亡中位推計による。以下同様)。すなわち、2060(平成72)年までの今後50年間で、人口は4,132万人(2010(平成22)年人口の32.3%)の減少が見込まれている。厚生労働白書より

高齢化社会
高齢化社会とは、総人口に占めるおおむね65歳以上の老年人口が増大した社会のことをいいます。
その問題点としてあげられるのが、経済活動はその担い手である労働力人口に左右される。人口急減・超高齢化に向けた現状のままの流れでいくと経済成長に間違いなく陰りが出てくることになります。
高齢者が増えると数少ない労働人口で高齢者を支えなければならくなり、社会保障制度の存続が難しくなってきます。。さらに税収も減少してきますので財政面でも緊縮してくることが考えられます。

地方の過疎化


三大都市圏の人口が総人口に占める割合をみると、三大都市圏が総人口に占める割合は、従前から一貫して増加傾向にある。特に、その多くが東京圏のシェア上昇分である(右の図)。
 一方で、過疎化が進む地域をみると、同地域全体の平均の人口は2005年(平成17年)の約289万人から2050年(平成62年)には約114万人に減少すると推計され、減少率は約61.0%と見込まれる。これは、全国平均の人口減少率(約25.5%)を大幅に上回る。 このように、我が国においては、三大都市圏への人口集中と過疎化の進展が並行して進むことが想定される。
 日本の人口減少が進むと都市圏への流出が進み、地方経済や産業(働く場所))が無くなり、さらに過疎化が進むという負のスパイラルになってきてしまうこりになる。

労働形態の変化
平成元年時点では、労働者人口に占める非正規雇用の割合は約19%でした。非正規割合は上昇し続け、平成29年では37%を占めるに至っています。この原因としては、1990年代初頭のバブル経済崩壊後、各企業が固定的人件費の増加を避けるため、正社員をリストラし、雇用の調整弁としての非正規雇用者を増やしたこと、一度非正規で働き始めるとその状態からなかなか抜け出せず、30代40代の非正規労働者が多数いることが問題となっています。
さらに非正規の労働賃金の格差もさらに大きくなってきています。同一労働同一賃金制度や非正規の正社員への転換制度などがうたわれていますが実態としてその壁はなかなか埋まらないものとなっています。

外国人労働者の増加

発展途上国の低賃金生産に対抗すべく、ブラジル二世などの労働力を導入し始めたのに続き、3Kに類する業種での労働力不足から外国就労が拡大されていき、能実習生や留学生のアルバイと称して外国人労働者が増えてきた実情がある。さらに人口減少などにより深刻な労働者不足になった現在必然的外国人労働者需要に応えるべく新制度は、日本人の就労希望者が少なく、慢性的な人手不足に陥っている「建設」「農業」「宿泊」「介護」「造船」の5分野を対象に、新設する「特定技能評価試験」(仮称)に合格すれば就労資格を得られるようにすることになった。増え続ける外国人就労者の受け皿をしっかりしないと不用意に外国人が増えるだけになりかねない懸念があることを忘れてはならない。

景気と所得

2人以上世帯のうち勤労者世帯の実質可処分所得2人以上世帯のうち勤労者世帯の実質可処分所得が30年前以下の水準に落ち込んでいることが、総務省の「家計調査」で分かりました。実質可処分所得は、現在と連続するデータのある1963年から年を追うごとに上昇しましたが、97年の月額47万9302円を頂点に減少に転じました。直近の2015年には40万8649円まで下がりました。この額は1985年の41万3835円より低い水準です。
 実質可処分所得が下がった要因の一つは、実収入が伸び悩んでいることです。名目値でみると、実収入は、1997年の59万5214円を頂点に、2015年には52万5955円と7万円近くも下がりました。
 さらに、非正規雇用の賃金はこれらサラリーマンよりさらに低く、その率40%弱にもなります。このデータからも賃金の低下が景気に大きな影響を与えていることが判ります。特定の大企業などが利益を上げていても国民の高景気感が生じていない時代が平成の実態でした。


 

環境問題
環境問題とは、『人類の活動の結果、周囲の環境の変化によって発生した問題で、それによって直接もしくは間接的に、人への生命や健康への被害、地球の生態系の破壊が発生する危険性の大きいもの』であるとしました。
それでは具体的には、地球上にはどんな環境問題が現在認識されているのでしょうか?できるだけ広く網羅してみると次のようになります。

過剰な動物の殺傷、植物の伐採
有害化学物質による空気、水、土壌、その他の汚染
放射性物質の利用と廃棄
オゾン層破壊による紫外線増加
急激な温暖化
温暖化による洪水、干ばつ、台風の増加、海面の上昇
地盤沈下
酸性雨
砂漠化、森林減少
塩害
エネルギー、水、食物、その他資源の不足
ごみ問題
電磁波による健康障害
その他の公害問題 (騒音、振動、悪臭、電波障害、光害、日照阻害など)

昭和時代も公害という言葉で環境問題が問題視され、ある程度の改善はされてきていますが、平成は世界経済の向上や人口増により世界レベルの環境問題とし多くの事象が発生してきています。自然破壊や自然災害により、地球上の生物や人間の存続すら危ぶまれる問題となっていることを自覚しながら新元号を迎えなければなりません。

災害の多発

平成は災害の多発した時期でもある、阪神淡路大震災や東日本大震災などの地震や噴火などの自然災害に加えて温暖化が原因と思われる異常気象による災害も発生してきている。巨大台風や集中豪雨、大雪や猛暑など100年に一度と言われる災害が頻繁に起きだした時代でもあった。

1.1990年代
1.1. 雲仙普賢岳火砕流
1.2. 平成3年台風19号
1.3. 釧路沖地震
1.4. 北海道南西沖地震
1.5. 1993年米騒動
1.6. 1994年猛暑
1.7. 北海道東方沖地震
1.8. 三陸はるか沖地震
1.9. 阪神淡路大震災

2. 2000年代
2.1. 三宅島噴火
2.2. 鳥取県西部地震
2.3. 芸予地震
2.4. 2003年十勝沖地震
2.5. 新潟県中越地震
2.6. 福岡県西方沖地震
2.7. 平成17年台風14号
2.8. 平成18年豪雪
2.9. 能登半島地震
2.10. 新潟県中越沖地震
2.11. 2007年猛暑
2.12. 平成20年茨城県沖地震
2.13. 岩手・宮城内陸地震
2.14. 岩手県沿岸北部地震
2.15. 駿河湾地震

3. 2010年代
3.1. チリ地震
3.2. 2010年猛暑
3.3. 平成23年豪雪
3.4. 新燃岳噴火
3.5. 東日本大震災
3.6. 長野県北部地震(栄村大震災)
3.7. 福島県浜通り地震
3.8. 平成23年台風12号
3.9. 平成25年台風26号
3.10. 2013年猛暑
3.11. 平成26年豪雪
3.12. 2014年広島市土砂災害
3.13. 2014年御嶽山噴火
3.14. 平成28年熊本地震
3.15. 台風第7号、第11号、第9号、第10号及び前線による大雨・暴風
3.16. 大阪府北部地震
3.17. 西日本豪雨
3.18. 2018年猛暑
3.19. 平成30年台風21号
3.20. 平成30年北海道胆振東部地震

原発問題
3月11日14時46分頃、三陸沖でマグニチュード9.0にも及ぶ巨大地震が発生し、さらに大津波が東北地方、そして東日本全域の沿岸を襲いました。福島第一原発では、原子炉の運転自体は緊急に自動停止したものの、津波によりオイルタンクが流出し、非常用電源は全て動かなくなり、非常用炉心冷却装置が注水不能に陥りました。また使用済み核燃料プールも冷却不能になりました。
その結果、同原発1・2・3号機では核燃料棒が崩壊熱でメルトダウンするに至り、炉内で発生した水素が爆発し、原子炉建屋や原子炉内圧力容器、そして格納容器までが破損しました。また4号機でも核燃料プールの冷却機能喪失―水素爆発に至っています。原子炉を制御する各種の計測器は故障するなか実際事故の実態がいかほどのものであるのか把握できず、かと言って強い放射線によって原子炉に近づくこともできず、事故の収束を図ることができないという危機的状況が続いているのです。
地震の被害に加えて、原発の事故により広範囲の汚染が進み、多くの人が地域を追われて新元号がスタートする今でも以前地域に戻れない状況です。メルトダウンした原発の廃炉作業も進まず、解決の目途すら立っていないのが実情です。

平成で海外も大きな変化が
1990年代
大戦後の資本主義社会と社会主義社会の冷戦時代、核開発や地域紛争などで混沌とした時代が続いていましたが、ベルリンの壁が無くなり、ソ連邦の崩壊、など、冷戦構造の終結を迎えたのが平成初期です。同時にイラク軍がクエートに侵略、その後一次湾岸戦争になりクエート開放となりました。超大アメリカ、経済大国にのし上がった日本、それに対応すべくEUが発足、経済力を争う時代に入ってきます。
2000年代
911アメリカ同時多発テロ発生、後にテロに対抗すべくアフガン戦線、さらにイラクとの湾岸戦争に発展してしまう、アラブ地域の政情不安とテロの応酬する新たな局面になってきた。経済面ではEU共通通貨ユーロの登場、リーマンショックによる世界経済の低迷などがこの時期である。
2010年代
湾岸戦争後混沌としていたアラブ情勢がエジプトのムバラク政権が崩壊リビアカダフィ政権が崩壊など長期独裁政権が消滅「アラブの春」ともてはやされた。北朝鮮では核開発やミサイル実験など緊迫した状況が継続した。アラブでは、シリアあイラクのアラブの春空白地帯にイスラム過激派組織の「ISIL」などが台頭イスラム国家を宣言、内線やテロ行為で世界問題になってくる。アラブやアフリカ、中南米などでの内戦により移民問題が発生、アメリカではトランプ政権が誕生、ヨーロッパでもの急進左派連合が躍進して、世界的政情不安な時代になってきた。イギリスではEU離脱問題、アメリカでは中国などとの貿易戦争など自国主義が大頭、世界協調に問題が生じてきた。
世界的にも新たな火種が政治的にも経済的にも生じる可能性があり注視していく必要があります。

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【3】時代の変革期平成

 平成は、技術革新の時代です。インターネットに始まり、今までに空想の世界であったものが多数実用化されて時代でした。その一部をまとめてみました。

コンピューターがパソコンにそしてそして・・
研究所などの限定された場所で利用されることが多かったコンピュータがアップル社のマッキントッシュによって、パーソナルコンピューター(パソコン)の地位を確立、さらにウィンドーズの登場により一機に普及するようになってきたのが平成初期です。そこで多くの需要が生まれることにより、技術開発が進み、ハード面・ソフト面でも着実な進歩を遂げていったの平成の時代です。Macはさらなる進化を遂げウィンドーズも95 98と発展するとともに企業でも業務に広く使われるようになり、個人ユースも活発に利用されるようになってきた。ソフトウェアの開発インターネットの利用により、パソコンの利用範囲はさらに広がり、さらに拡大をしていくのだが、そこで登場してきたのがi-phoneでありスマートフォンである、携帯電話の機能にパソコンの機能を+さらにどこでもインターネットに接続できる環境を有し現在ではパソコンに代わって広く使われるようになってきています。

電話が携帯電話にそしてスマートフォン
すでに家庭用電話が普及が外で使える電話として一部自動車電話が登場していましたが維持費も高く個人所有は無理でした。そこに登場したのが外で連絡をとれるポケベルです。平成に入り利用費用も安くなり、数字の語呂合わせで情報交換するなど高校生含めて広く普及してきます。並行して携帯電話も小型化され利用範囲が拡大、PHPの簡易携帯で一気に利用が広がっていきます。携帯電話にインターネット接続サービスが開始されたのは、平成11年、携帯電話の端末から、インターネットを通じて必要な情報を得られるという便利な時代が始まりました。さらにカメラ機能、音楽機能、お財布機能などなど日本独自の携帯文化がガラケーとして発展していました。
Appleが「iPhone」を発表したのは、平成19年のこと。その翌年には、日本でiPhone端末が発売になります。平成21年には、Android搭載の端末が発表され、いよいよ本格的なスマートフォン時代突入しました。
スマートフォン性能も上がるとともにモバイル通信高速化が進み、外でもあらゆる情報を利用した多岐に渡るサービスが利用できるそんな時代になったのが平成です。従来に無いインターネットとスマートフォンという情報端末が生むまったく新しいネットワークが生まれたのが平成です。

インターネットの発展
平成を象徴するのは、インターネットの登場である。平成初期は、ネットワークのスピードや脆弱さから一部の研究者などで利用されるにとどまっていたが、高速通信網の整備や利用料金の定額化により一気に広まっていった。パソコンがインターネットにつながることにより距離・時間を克服し、帯域の制限をなくした。これによって産業構造にも変化が生まれた。樹来の産業とは全く異なるサービスが数々登場しグーグルやフェイスブック、ヤフー、アマゾンなどなど新たなインターネット関係の企業が生まれ、世界有数の企業となって世界に君臨するようになっている。
さらにスマートフォンの登場によりどこでもインターネットに接続されることにより、利用者があらゆる情報を活用でき、企業側も再利用可能なビッグデータを集められるようになったため、サービスはさらに拡大そて個人の嗜好に合わせてサービスや情報を提供できると同時に、生産者側も消費者にピンポイントに効果的に商品などを宣伝することが可能になったのだ。
インターネットの世界はは平成に起きた産業革命と言えるものである。令和の時代にはどのような世界が広がっていくでしょう。

平成における先進医療の進歩
遺伝子医療
遺伝子治療は、ある遺伝子を患者さんの体内に入れ、その遺伝子が作り出すたんぱく質の生理作用により病気を治療するものです。医薬品とはことなりひとりひとり異なる利用法になり効果的な治療が行えます。
ゲノム分析
多くの生物の遺伝情報を解明することです。現在、遺伝子情報(DNAの塩基配列)は自動的に解読でき、コンピュータで解析できるようになりました。ヒトゲノムの解明は、特に重要であり、病気の予防や診断・治療に結びつきます。
IPS細胞
iPS細胞とは、細胞を培養して人工的に作られた多能性の幹細胞のことです。 2006年8月に京都大学の山中伸弥教授らは世界で初めてiPS細胞の作製に成功皮膚などに分化した細胞にある遺伝子を組み込むことで、あらゆる生体組織に成長できる万能な細胞を作ることに成功したのです。これは、成熟した細胞を、多能性を持つ状態に初期化する、つまり細胞の時間を巻き戻すような画期的な発見であり、今後の再生医療や創薬研究に役立つことが期待されています。
内視鏡手術
今までの開腹施術と異なり、体に小さな穴をあけそこから内視鏡で手術を行うことが出来るようになりました。患者への負担が少なく、回復も早くさらに術後の後遺症も非常に少ないことが最大の利点です。
電子カルテ
来医師・歯科医師が診療の経過を記入していた、紙のカルテを電子的なシステムに置き換え、電子情報として一括してカルテを編集・管理し、データベースに記録する仕組み、またはその記録のことである。これにより病院が変わっても患者情報が共有されることにより、より有効な治療が行える。また検査の重複なども無くなり医療費の節減にもつながります。
医療費問題
最新医療により多くの病気治療が可能になり、患者の負担も軽減されてきています。こうした先進医療技術は、「高価」であるといわれて、常に増え続ける国民医療費を押し上げる要素にもなりかねません。先進医療の低コスト化や費用効果の策定などで先進医療を推進していく事も大切です。

その他最新技術も登場発展が見込まれます
ロボット
人の代わりに何等かの作業を自律的に行う装置、もしくは機械のこと。 生産工場などで人の代わりに多くの作業をこなしている。今後より生活に密着したところで多くの働きが期待されている。
人工知能AI
人工知能(AI)とは、人間の知的ふるまいの一部をソフトウェアを用いて人工的に再現したものです。プログラムされたものでは無く経験から学び、新たな入力に順応することで、人間が行うように柔軟にタスクを実行します。ビジネスや生活における様々な難しいタスクをこなせるようにコンピューターをトレーニングすることによりいろいろな分野で役立つようになってきています。。
ドローンの登場
小型無人航空機(ドローン)はホビー用から産業用へと応用分野を拡大しながら,新産業創出として世界的な高揚期に入っている。世界のドローン市場は急速に成長しており,人の入れないところの調査、検査作業、災害活動や宅配事業など幅広い分野での活躍が期待されている。


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【4】新しい時代「令和」の持つ意味

皇室典範特例法の規定に基づく今上天皇の退位(4月30日)と皇太子徳仁親王の即位(5月1日)が予定されている。それに先駆け4月1日に新元号「令和」が決定しました。

令和の出典
「令和」の出典は『万葉集』巻五[21]の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序)」にある一文

  于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
読みとしては
  時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。
に由来します。

現代語訳としては
時は初春の令月(※すなわち、何事をするにも良き月、めでたい月)[23]、空気は美しく(※『初春』の『令月』を受けての解釈では、瑞祥の気配に満ち)、風は和やかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる。

この令月のの令と 風は和やか の和をとって 「令和」となりました。

令和の意味 ・・ 安倍首相談話
令 年号では初めて使われる

りょう〔リヤウ〕【▽令】
古代、中国を中心とする東アジア諸国の法典。律とともに国家の基本法典で、のちの行政法・訴訟法・民法などにあたるすべての規定を含む。日本では飛鳥浄御原(きよみはら)令・大宝令・養老令などが順次に制定された。実際に全国的に実施されたのは大宝令。→律令
りょう【令/霊】[漢字項目]
〈令〉⇒れい
〈霊〉⇒れい
れい【令】
1 命令。布告。また、法令。「令を下す」「解放令」
2 古代中国の官制で、地方長官。特に、郡県制における県の長官。
3 明治初期、府・県の長官。知事の旧称。
4 鎌倉時代、政所(まんどころ)の次官。
5 律令制で、京の四坊ごとに置かれた責任者。坊令。
6 ⇒りょう(令)
れい【令】[漢字項目]
[音]レイ(漢) リョウ(リャウ)(呉) [訓]しむ せしむ
[学習漢字]4年
〈レイ〉
1 言いつける。命ずる。言いつけ。お達し。「令状/禁令・訓令・号令・司令・指令・辞令・勅令・伝令・発令・布令(ふれい)・命令」
2 おきて。のり。「条令・法令」
3 長官。「県令」
4 よい。りっぱな。「令色・令名」
5 相手の親族に対する敬称。「令兄・令嬢・令息・令夫人」
〈リョウ〉
1 言いつけ。「令旨(りょうじ)」
2 おきて。「令外(りょうげ)/律令」
[名のり]おさ・なり・のり・はる・よし
[難読]御布令(おふれ)・令史(さかん)・仮令(たとい・たとえ)・縦令(たとい・たとえ)

和 昭和にも使われているなじみのあるもの

和(読み)オ
デジタル大辞泉の解説
お【和】[漢字項目]
⇒わ
か【和】[漢字項目]
⇒わ
にき【▽和/▽熟】
[語素]《中世以降「にぎ」とも》名詞の上に付いて、やわらかな、しなやかな、穏やかな、などの意を表す。「―たえ(和妙)」「―て(和幣)」
にこ【▽和/▽柔】
[語素]やわらかい、こまかいの意を表す。「―やか」「―毛」
わ【和】
1 仲よくすること。互いに相手を大切にし、協力し合う関係にあること。「人の和」「家族の和」
2 仲直りすること。争いをやめること。「和を結ぶ」「和を講じる」
3 調和のとれていること。
「大いに身体の―を傷(やぶ)り」〈中村訳・西国立志編〉
4 ある数や式に他の数や式を加えて得られた結果の数や式。⇔差。
わ【和】[漢字項目]
[音]ワ(呉) カ(クヮ)(漢) オ(ヲ)(唐) [訓]やわらぐ やわらげる なごむ なごやか あえる なぐ なぎ
[学習漢字]3年
〈ワ〉
1 争いごとがなく穏やかにまとまる。「和解・和合・和平/協和・講和・親和・不和・平和・宥和(ゆうわ)・融和」
2 やわらいださま。ゆったりとして角立たない。「和気・和光同塵(わこうどうじん)/温和・穏和・緩和・清和・柔和」
3 性質の違うものがいっしょにとけ合う。「混和・中和・調和・飽和」
4 声や調子を一つに合わせる。「和韻・和音・和声/唱和」
5 二つ以上の数を合わせたもの。「総和」
6 日本。日本語。「和歌・和裁・和室・和食・和風・和服/英和・漢和」
7 大和(やまと)国。「和州」

令和の意味
本日、平成を改める元号を改める政令を閣議決定いたしました。
新しい元号は『令和』です。

これは、万葉集にある「初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」との文言から引用したものであります。
そして、この『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められています。

万葉集は、1200年前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで幅広い階層の人が詠んだ歌がおさめられ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいきます。

厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望と共に、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定いたしました。

文化をはぐくみ、自然の美しさを愛でることができる平和の日々に心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ちあふれた新しい時代を国民の皆さまと共に切り開いていく。
新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております。

5月1日に皇太子殿下がご即位され、その日以降この新しい元号が用いられることとなりますが、国民各位のご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。
政府としても、ほぼ200年ぶりとなる歴史的な皇位の継承がつつがなく行われ、国民こぞって寿ぐことができるよう、その準備に万全を期してまいります。

元号は、皇室の長い伝統と国家の安泰と国民の幸福への深い願いと共に、1400年近くに渡る我が国の歴史を紡いできました。
日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものとなっています。
この新しい元号も広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根差していくことを心から願っています。

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