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「1年の計は元旦にあり」と言われます。年初にはみなお正月をお祝いすることと思います。今月はそのお正月の風習についいて取り上げました。
門松


お正月
【1】お正月とは?
【2】海外のお正月
【3】正月の行事と作法


【1】お正月とは

 毎年新年をお祝いしますが、お正月とは何なのでしょうか?
 本節ではお正月とは、日本の年中行事のうちでどのような性格を持つものなのか解説しました。
日本の年中行事

 年中行事は村や家など集団での生活の流れに1年単位のリズムを刻む役割を果たしています。朝廷や社寺のような特殊な階層にも独自の年中行事があります。元来宗教的・儀礼的性格が強く、日常的な経済活動の中に非日常的な精神的部分が加わるところに特色があります。日本の年中行事の基盤は、稲作儀礼を中心にした生活暦による行事と中国の暦法に伴う行事との習合で形成されています。年中行事が稲作社会を背景に成立しているからでしょう、もちろん漁労儀礼もありますが、年中行事の体系全体を動かす力にはなっていません。

 北半球の温帯域では大概が冬至を新年の基準にしています。これは主な作物の収穫後に新年を置く暦法で、日本古来の新年も大嘗祭の日であったそうです。大嘗祭が天皇の即位儀礼の日でもあったのは、アジアの古代国家で新年に帝王の即位儀礼を行なったものに合います。日本語の歳も中国語の年も本来は穀物の実りを意味していました。穀物が2~5月に熟す琉球諸島では、元々生産暦に即して5~8月にかけて収穫儀礼や新年儀礼がありました。なお、年中行事には1年を2分する観念もあり、朝廷の祓の行事が6月と12月にあるのもその一例で、1年の前半と後半で行事が反復するのです。現代では正月と盆(盂蘭盆会)との対応にそれが顕著に現われています。

 『養老令』には朝廷の年中行事が見られます。神梢令の祭には日本的な稲作儀礼に立脚する行事と災害を除く祓の行事があります。播種儀礼の2月の祈年祭や収穫儀礼の9月の神嘗祭、11月の相嘗祭と鎮魂祭、風水害除けの4月と7月の大忌祭と風神祭、祓の6月と12月の月次祭と鎮火祭及び道痢祭です。雑令には節日として中国的な節供があります。これは朝廷で節会がある日で、1月1日の元日節会と7日の白馬節会、16日の踏歌の節会、3月3日の上巳節会(曲水の宴)、5月5日の端午節会、7月7日の相撲節会、11月の大嘗の日の新嘗会です。これらは、後世の一般の年中行事の中でも重要な要素になっています。

 日本の年中行事は律令成立前後に成熟期を迎えますが、その後も時代により地域により変遷を重ねてきています。その中でも上流階級の行事と一般の行事との交流は極めて複雑で、行政的な行事が一般に浸透した部分も少なくありません。琉球の首里王府のように行事の日取りをその年の実情に合わせて定めたり、収穫儀礼に徴税担当官が関与するなど行政機関が一般の行事に関わっていた例もあります。殊に暦法や行事の儀礼に通じた宗教家が各階層の行事の変化交流に及ぼした影響は大きいと言えます。年中行事の地域的変化はそれぞれの土地の生活文化の差ばかりではなく、こうした外部からの知識の波及の度合の違いが大きな原因になっていることが多いと言えます。


最古の年中行事
 正月は日本の行事の中で最も古くから存在するものだと言われています。しかし、その起源はまだ詳しく分かっていないところも多くあります。仏教が伝来した6世紀半ば以前より正月は存在していたと言われています。お盆の半年後にやってくる正月は、本来お盆と同じく先祖をお祀りする行事でした。しかし、仏教が浸透しその影響が強くなるにつれて、お盆は仏教行事の盂蘭盆会と融合して先祖供養の行事となり、正月は歳神を迎えてその年の豊作を祈る神祭りとしてはっきり区別されるようになったと考えられています。また、現在のようなお正月の行事(門松や注連飾り、鏡餅などを飾ること)が浸透したのは江戸時代に入って庶民にも手軽に物品が手に入るようになってからのことだと考えられています。

お正月とは?

 正月とは暦の上での新年を迎える行事で、本来その年の五穀豊穣を司る歳神様をお迎えする行事です。1月の別名であり、年越し、年取りとも言います。現在は1月1日から3日までを三が日、7日までを松の内ないし松七日と呼び、この期間を「正月」と言っています。地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正月)こともあります。
 大晦日から元日にかけての行事が中心になり、12月の中旬から1月下旬まで続く行事です。元々神道においては正月には各自の家に祖先神が帰って来るという信仰がありました。祖先神とは先祖の集合霊で、それを正月様、歳神、歳徳神と呼びます。この歳神を迎えて家を祭場にする準備をするのが御事始めで、上方では12月13日でした。これを煤払いとも言います、家長はこの日から精進潔斎に入ります。門松もこの日から立てましたが、門松は帰って来る歳神の依り代です。昔は一日の始まりは夕方でしたから、正月の行事も大晦日の夕方に始まります。従って現在は年越しそばとなって残っていますが、昔は12月31日の夕食が正月の最初の食事だったのです。また、1月1日に食べる雑煮は、歳神に供えた食品を下げてごった煮にして、神と人とが一緒に食事をする直会の一種で、正月には親族の全員が揃って歳神と一緒に食べることに意義があり、そのため遠く離れた子や孫が親元に帰って来る時、食品を持って帰ったのですが、その風習が歳暮になったと言います。

 正月とは、暦の上での1年の切れめを祝う新年の行事で、新年を迎えることを年取りとか年越しとも言います。大祁日から元日にかけての行事に主体がありますが、ほぼ1月いっぱい続きます。行事の流れは、1日を中心にする大正月と、15日を中心にする小正月とに大別でき、さらにこの他に、7日の七日正月、20日の二十日正月を重視する場合もあります。また、12月は既に正月の始まりで、東北地方北部では12月中に神仏の年取りがあります。正月の支度の開始は一般には12月13日で、山へ行って門松や正月の飾木を取り、家の煤払いをします。家を清め、門松を立てて注連飾りをするのは、そこが神聖な神祭の場であることを表わす意味があります。
 新年に祀る神を歳神あるいは歳徳神と言い、神職が配る歳神のお札や御幣を神棚や床の間に祀ることが多いのですが、年棚を作り、歳神の御幣を祀る古風な様式もあります。わらべうたでは歳神を「正月様」と呼び、遠くから訪れてくる神と謳っています。トシには稲などの稔りの意味がありますが、それだけで歳神を稔りの神と限定することはできません。また、厄病除けに歳神と共に厄神の御幣を祀ったり、或は神職の配った厄神の御幣を大祁日に道の嶋に送り出したりする土地もあります。これは厄神の宿と言って、大祁日の夕方に厄神を家に迎え、正月をすごさせる家も多くあります。要するに歳神と厄神は正月の神の両面で、こうした新年の神祭には陰陽道の知識を持つ民間宗教家の影響が大きく、また、歳神が初卯の日に帰るというのも、宮中の儀礼と共通しています。古代には、大祁日の夜に家に死者の霊を迎えて食物を供えて祀る風習が広くあり、東日本には後世まで残っていたことは古くは『徒然草』に見られ、現に「みたまの飯」と言って先祖の霊に握飯を供える習俗が行なわれていましたが、年末の魂祭は平安時代には京都や西日本にもあったことが、これまた『日本霊異記』や『枕草子』にも見ることができます。また、琉球諸島では、今も正月は盆とともに先祖を祀る行事の色彩が強く、新年の行事が盆行事と一対をなしている伝えも多くあり、沖縄で盆はあの世の人をこの世の人が招き、正月はあの世の人がこの世の人を招く日であると言っているのは二つの行事の特色をよく表していると言えます。新年は時間の周期が原点に戻る日で、時間的隔たりが超克され、この世とあの世との交流が可能であると考えられていました。中国でも大祁日に先祖の霊を迎える例があり、これが新年の行事の重要な要素であった可能性は大きいと考えられます。ちなみに、大祁日の夜の年越し蕎麦や元日から三が日の朝の雑煮など新年の行事には特定の食物を食べる習慣があり、大祁日の夕食に添える年取り魚も顕著な例です。東日本では鮭、西日本では鰤を用いることが多いとされますが、これは正月が精進でないことを表す食品です。正月の食物の代表は蛭で、歳神には鏡蛭を供えます。平安時代、宮中では譲葉と大根、押鮎、橘を載せて鏡蛭を供えましたが、天皇には「歯固め」と言って、三が日の朝、鏡蛭と大根、魚、鹿や猪の肉(代用は雉の肉)などを盛った膳を供えました。雑煮とは本来こうした神に供えた食品を捧げて食べる調理法で、神と人が食事を共にする直会の一種でした。普通の神は鳥獣の肉を忌みますが、南九州でも近頃まで雑煮に野鳥や野獣の肉を入れたと言いますが、これは新年に祀る神がやや特異であったことを表わしていると言えるでしょう。
 正月行事には、村落社会の構成単位である家が表われています。一家の主人が年男と称して行事を主宰し、門松取りや煤払いなどの支度から元日の若水耀みや雑煮の炊事など神事を全て司ります。大祁日に家中揃って寝ずに元日を迎えるのもお籠りの形で、これは12時になると村の鎮守に参る準備ですが、著名な社寺への初詣はその都市的発展です。年始にしても本家と分家の関係がある家や近隣の家を廻るのが本来の在り方です。また、道具や小屋にも注連飾りをつけ、年取りをさせる意識があります。正月行事の実体には、家屋敷の年取りと家の中での神祭との二重の意味があります。門松も、松以外の木を用いたり、一本だけ立てたり、家の大黒柱に立てるなど変化があり、元々は家屋の年取りの意味があったのではないかと考えられます。なお、1月2日ないし4日に仕事始めがあり、農家では田畑を耕す真似事をします。商家では2日が初荷、初商いになります。初山入りを仕事始めとする地方も多くあります。山の木の伐り初めで、平安時代の宮中の初子の小松引き(子の日の御遊び)に相当します。このとき小正月の飾木を取ってきますが、それを稲の種子播きや田植の儀礼に用いる例が多く見られます。これは稲を守る神の象徴の木を迎える儀礼の一形態です。旧暦2月は稲の種子おろしの月で、正月の行事はその前段をなしていました。1月11日の田打ち正月や、小正月の庭田植で田打ちや田植の模擬作業をするなど、稲の豊作を祈る行事もあります。現代の正月行事には、このように暦による正月の行事と古来の稲作開始前の儀礼とが重なり合っているのです。
1年の初め

鏡餅 1年365日余を12か月に分割し、4年に1度の閏年を置いて誤差を修正する太陽暦に慣れた私達は何の疑問も持たなくなっていますが、世界の暦の歴史をみても明らかなように、暦法の発達してなかった時代において1年の初めを規定することはとても困難なことでした。日本の場合、1873年(明治6)に太陽暦を採用するまで太陰太陽暦(旧暦)を使っていました。日常生活においては、微妙な太陽の位置を観測するよりは確かに月の満ち欠けを基準にする方が簡便ですが、誤差が大きいために、長期間続けていると季節が合わなくなってきます。それを防ぐためには閏月を設けてこれを修正しなければなりません。どこに閏月を設定するかは月の満ち欠けだけでは不可能で、太陽の観測が必要になります。つまり、太陰太陽暦は日常生活は月に頼り、より高度な知識によって誤差を修正した暦です。中国は早くから進んだ暦法を持っていたため、それを取り入れて学ぶところが大きかったのです。古代の支配者は暦を発行することによって支配権を確立しました。それに対して、古代国家の成立前や以後でも文字の読めない大多数の庶民の生活では、動植物など自然の観察からおよその季節感を体得することができたでしょうし、天文学の知識がなくても夏至や冬至を知っていたに違いありません。冬至を過ぎると「畳の目の一つずつ」或は「犬の足あと一つ分ずつ」陽がたかくなるなどと言うのは自然観察に基づく経験知識です。一方で北半球においては冬至の時に太陽の力が最も弱まるのだとも考えられており、それを回復させるための種々の祭りが生まれました。冬至の祭りを重視したり、節分や立春を年の境とする考え方は、この流れを引くものだと考えることができます。月を基準とする時、新月より満月の方が観測しやすく、満月から次の満月までを1か月とするのが自然です。今日、1月1日を中心とする朔旦正月(大正月)より1月15日を中心とする望の正月(小正月)の方が古い形だとする考えがあるのはこれに基づいています。

 日本の民族形成に関しては諸説あっていまだ決着をみていませんが、初め狩猟・焼畑耕作を主生業とする人々が土着して、その後から稲作を主生業とする集団が渡来し、稲作民族が他を圧倒するようになったという説は広く認められています。現行の正月行事も、現在から溯って把握できる限りの正月行事は全て稲作中心に塗り込められていますが、微かに焼畑時代の名残と思われる行事もあり、稲作中心に再編成した改変の後を辿ることもできます。そういう立場から年中行事全体を見直すことが必要ですが、稲作中心に塗りつぶされてからの歴史も古く、現行行事の基本になっているのも事実です。
 また、正月に家々を訪れてくる歳神は正月様とか若年さん、歳徳様などとも呼ばれ、穀物霊、殊に稲魂から発達した農耕神とされています。歳神の神格形成に当たっては祖霊信仰の影響を考えなければなりません。先祖の霊に対する信仰は自然発生的なものだったでしょうが、ここで言う日本的祖霊信仰は数種の神学風の理論を整え、中世末から近世にかけての時期に形成されたものだろうと考えられます。祖霊信仰が整備されてからの正月は盆と共に年に二度の魂祭り(祖霊祭)の機会で、個性を失って祖霊に融合同化した先祖の霊を迎え祀る機会でした。ところが、盆の方は早くから仏教と結びつき、死者の霊の供養行事と考えられ、これに対抗して正月の方は、死の穢れに関係のない清らかな祭りであることを強調した結果、盆と正月とは全く別の行事のように理解されてきましたが、年の夜に声を上げて死者の霊を呼び迎えるとか、東日本では年末か正月に御魂の飯に箸を突き立てて祖霊に供えるとか、主として西日本で元日に墓参をする習俗があるなどは、何れも正月の魂祭り(先祖供養)の名残です。
歳神様を迎える日


歳神様を迎える日
 正月は家に歳神様をお迎えし、祝う行事です。歳神とは1年の初めにやってきて、その年の作物が豊かに実るように、また、家族みんなが元気で暮らせる約束をしてくれる神様です。正月に門松や注連飾り、鏡餅を飾ったりするのは、全て歳神様を心から歓迎するための準備です。そもそも私たちの祖先は「全てのものにはいのちがあり、何らかの意味がある」とするアニミズムを信仰しており、作物の生命と人間の生命は一つのものだと考えていました。そのため、人間が死ぬとその魂はこの世とは別の世界に行き、ある一定の期間が過ぎると個人の区別がなくなって祖霊という大きな集団、いわゆるご先祖様になると信じられていました。この祖霊が春になると田の神に、秋が終わると山へ帰って山の神に、そして、正月には歳神になって子孫の繁栄を見守ってくれているのだと信じられていたのです。

歳神(年神)
 歳神と書いて「としがみ」と読みます。最近は年神と表記されることもあります。歳神は正月に家に迎え祀る神で、トシトクサマ(年徳様)、トシトコさん、正月様などとも呼ばれます。年棚を設けて祀る土地が多く見られます。歳神の神格については、正月の守り神、作神様、社日様と同じ神様であるとか、タガミ(田神)様が歳神様になるなどと伝える地方があるように、作神としての性格が顕著です。歳神の司祭者である年男は家長とする地方が多いですが、主婦の任務としているところもあります。歳神の歳は米を意味しており、更に歳神を老人の姿とするところが多く、先祖の霊とも考えられています。大分県国東半島では5月に苗代田に種籾を蒔く際、水口に小さな石を据え、これを田の神様に見立てて御神体の石にミキンといって半紙を被せ、焼米を供えて祀る。このミキンの紙は正月に歳神さまに供えた年玉の蛭の下敷きの紙を大切に仕舞っておいて、この時に用いる仕来りの土地が多くあります。これなどは歳神と田の神の関連を示すよい例と言えるでしょう。

霊に対する祝福の言葉
 1年の始めである正月は春の始まり、すなわち立春とも考えられており、人々は春の訪れがもたらす生命の誕生を心から喜びました。たとえば「めでたい(芽出度い)」という言葉は「新しい春を迎え芽が出る」という意味があります。また、新年に言う「明けましておめでとうございます」という言葉は、実は年が明け歳神様を迎える際の祝福の言葉でした。つまり、神様への感謝の言葉を人々の間で交わすことにより、心から歳神様を迎えたことを喜びあったということです。

正月の期間

 正月とは本来は旧暦1月の別名で、改暦後は新暦1月を意味することもあります。また、現在は三が日または松の内という意味で使用することもあります。

 松の内は元々は1月15日まででしたが、現在は一部地域では1月7日までに短縮しています。寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示しました。最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられます。ちなみに、このとき同時に左義長(どんど焼き)も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の一環だも考えられます。他に1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を二十日正月(骨正月)と呼ぶこともあります。また、新暦の元日を軸とする「大正月」(おおしょうがつ)と旧暦の15日を軸とする小正月(こしょうがつ)と呼ぶものがあります。大正月はまた大年(おおどし)、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもありまする。なお、12月8日(関西では12月13日)を「正月事始め」と称して正月準備が始まります。


正月休み
 現在、1月1日は国民の祝日の元日となっています。行政機関は、行政機関の休日に関する法律(昭和63年法律第91号)第1条第1項第3号の規定により12月29日から1月3日までを休日としており、一般企業でもこれに準じることが大半です。銀行などの金融機関は、銀行法施行令(昭和57年政令第40号)第5条第1項第2号の規定により12月31日から1月3日までを(ATM等を除いて)休日とすることが多く、システムメンテナンスを行なうため長くなることもあります。公共交通機関はこの期間中は平日であっても休日ダイヤで運行する傾向にあります。一方、小売業では、1980年代前半までは松の内(関東)の頃(1月5~7日)まで休業していた店が多く、1980年頃まで百貨店やスーパーマーケットなどの大型店ですら正月三が日は休業していました。しかし、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、開店日が早くなり、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店が多く見られるようになりました。大型店など店舗によっては短時間体制ながらも元日も営業することも多くなり、殆どの店舗の場合は4日頃から平常営業に戻ります。

正月の習慣

 正月には前年お世話になった人や知人などに年賀状を送る習慣があり、お年玉つき年賀はがきの抽選日までを正月とする習慣も多くあります。元来は年の初めに「お年始」として家に挨拶に行ったり人が訪ねて来たりするはずのものが簡素化されたものとも言えます。1990年代末頃から携帯電話が普及したこともあり、年賀状でなくメールなどで済まされることが多くなってきています。また、新年最初に会った人とは「あけましておめでとうございます」という挨拶が交わされる場合が多く、これは英語圏の「ハッピー・ニューイヤー(Happy New Year)」が主に年末に言われるのとは異なり、新年になってからでなければ言われない。年末に、来年になるまで会わないだろう人とは「よいお年を」という挨拶がよく交わされる。

 かつては正月は、夏の盆と対応して半年毎に先祖を祀る行事でした。しかし、仏教の影響が強くなるにつれ、盆は仏教行事の盂蘭盆会と習合して先祖供養の行事とし、対する正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る神祭りとして位置付けられるようになってゆきました。また、数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなり、単に年が変わったこと(新年)を祝う行事となっている。なお、喪に服している場合は正月を行なわない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で年賀状を送ったり受けたりすることもなくなります。
大正月

 元日の朝は歳神祭りの司祭者である年男が早く起きて若水を汲みます。年男は家長の役目でしたが、仕事の内容は家事・雑事なので、長男に汲ませたり、下男にさせる家もありました。若水は人を若返らせる力を持つ水ということで、若水汲みには新しい手拭と手桶を整え、この水で雑煮を作ったり、湯を沸かして福茶を飲んだり、顔を洗ったり、風呂を沸かしたりするもので、これらは全て年男の役目でした。なお、今でも歳神様への供物だけは男が上げることにしているところもあります。雑煮は、年神様への供物を下ろして、ごった煮にして神と人とがいっしょに食べるもののことで、丸餅と角餅、味噌仕立てと醤油味などの区別がありますが、一般には餅吸い物のことを言います。大多数の雑煮には餅が不可欠のものとされていますが、全国の雑煮を詳細に検討してみると、餅よりも里芋を重視するものがあり、また芋羹と言って里芋の羹を食べるところがあります。焼畑耕作を主生業とした時代の名残が儀礼食の中に姿を止めているのではないかと考えられています。大晦日の晩から村氏神に御籠りしている場合もありますが、家々で年取りをする時には村氏神に初詣でをします。近隣の神社や寺院を含めて巡拝する例もあり、恵方参りの縁起を担ぐことが流行するようになると、その年の恵方にある社寺に参ることになり、今は村氏神に限らず、著名な社寺を目ざす人が多くなりました。年始の回礼などは都市的な行事ですが、分家の者が本家へ挨拶に行き、「おおばんぶるまい」などと言って、本家・分家の者が集まって共同飲食をすることは広く行なわれていました。また、お年玉というのは本来、家族の一人一人が自分の霊に準えた餅を出して並べておき、年神の霊威に触れて霊力を更新しようとするものでした。身祝いの餅というのはその流れを汲むものです。しかし、歳神の霊威は物理的な存在ではありません。分家の者が本家に挨拶に行くと、本家の主人が歳神の代役になって餅を与えます。こういうことから目上の者が目下の者に与える餅その他を年玉というようになり、やがて金銭の形に統一されてきました。

 正月の仕事始めは屋内作業と農作業、山仕事、商家の仕事始めに大別することができ、期日としては2日、4日、11日などが多く見られます。屋内作業の仕事始めは、縄ないや藁草履作りなどの「ない初め」、女性は針仕事の「縫い初め」などがあります。藁草履なら1足、針仕事なら袋の一つも作って後は休む。寺子屋で手習い(習字)をするようになって書初めも広く行なわれるようになりました。農作業の仕事始めは鍬初めや一鍬、農はだて、田打ち初めなどと言います。門松の小枝、鏡餅の小片、御神酒などを持って田か畑に行き、供物を上げて拝んでから鍬でちょっと土を打ってきます。山仕事の仕事始めは竹で作った折掛樽(おりかけだる)に酒を入れて山に行き、木の1本も切ってから別の立ち木に折掛樽を掛け、山の神を拝んで帰ってきます。その時に切った木を若木と言い、小正月の繭玉の木にすることもあります。また、漁村でも舟祝い、乗り初めや釣り初めなどと言って港の近くを2~3周して来ます。商家の仕事始めは帳祝いや倉開き、初荷などといい、当日は実質的な商売をしないが翌日から始める。昔の武家では具足(ぐそく)開きがあり、剣道などの寒稽古もこの時期に重なってきました。農山漁村や家庭内の仕事始めは実際の労働に先立つもので、形ばかりを模擬する予祝儀礼ですが、商家の倉開きなどは実務の仕事始めです。正月11日の鏡開きなどは歳神に供えた鏡餅を下ろし、打ち欠いて食べるのですから、当然に歳神祭りの終了を意味します。農村を中心とする年中行事に商家や俸給生活者(武家)が参加することになって、予祝儀礼と実務の開始と年神祭りの終了儀礼とが混同して理解されるようになったのです。なお、正月の3日間、5日間を三が日(にち)、五かん日と言って、正月の中の中心的な期間として祝いますが、門松を取り払うのは7日、11日、14日などで、門松の立っている間を松の内と言う。正月は目出度い祭りだという考えが強いため、三が日の間は僧侶の来訪を嫌い、4日を寺年始として僧が各戸を回ります。ただし、浄土真宗の濃厚な地帯では三が日も僧侶の出入りを忌むことがありません。6日の晩には若菜迎えがあり、春の七草を刻みます。七草は時代によって変動がありますが、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの7種で、特にナズナを重視します。「七草なずな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、ストトンストトン」などと唱えながら、七草たたきを行ない、7日の朝は七日正月と言って、七草粥(餅粥)を作って一家で祝う風習が現在も残っています。
小正月

 1月15日を中心とする新年の行事を小正月と言いますが、これは1月1日の大正月に対する呼び名で、十五日正月とも言います。また、前夜を十四日年越しと言い、年越しの一つに数え、正月行事は小正月で終わると考えるのが普通です。15日の朝、粥を食べる習慣は全国に広く、小豆粥にしているところが多く見られます。15日の粥は歴史的にも古く、伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』(804)に御粥とあり、『土佐日記』承平5年(935)の条に小豆粥が見えます。この日に用意する粥杖で、女の尻を叩く嫁たたきの風習も既に『枕草子』に登場します。また、15日の粥を用い、作物の作柄を占う粥占も行なわれます。一般に豊作を祈願する行事が集中しており、蛭花(稲花)や粟穂剰穂、繭玉など農作物に象った作り物を飾りつけて祝う物を作り、初田植などと呼ばれる模擬田植、果樹をなたや粥杖で叩いて豊熟を願う成木責めなどがあります。火祭も全国的に見られます。また、左義長とかどんど焼きとか言って正月飾を集めて燃やしますが、竹などの材料を調達して盛大に行なうところが多く見られますが、東日本ではこれが道祖神祭になっています。子供の行事で、小屋を作って生活する場合もあります。秋田県のかまくらも子供小屋の一種で、鳥追やモグラ打ちが行なわれる地方もあります。子供や若者が家々を祝って歩く風習も広く、ナマハゲのように鬼の姿に仮装した若者が来訪する土地も見られ、子供や若者が宗教的使者の役割を演じているのです。中国でも旧1月15日は元宵節(上元)と言って、華やいだ行事の多い日で、その前後には豊作を願う行事などがあって、小正月と共通する要素が少なくありません。小正月には稲の播種儀礼の前段に相当する予祝行事が多く、粥杖などもその一例です。中国の暦法の節日に伴う習俗に播種儀礼の前段が習合して発達した行事が小正月の中核をなしているものと考えられます。
取越正月

 取越正月とは、暦日上の正月を待たずに年の途中に儀礼的に正月を迎え、旧年から脱しようとすることを言います。天候不順で秋の実りが危ぶまれたり、悪疫が流行したり、天変地異が続くと、時ならず誰が始めるともなく蛭を搗き、門松を立てて注連縄を引き、服装を改めて正月礼に歩くことが起こり、次々に近隣に流行することがありました。これはその年の忌まわしさから脱し新たな嘉年を期待して行なわれるもので、仮作正月とも流行正月とも言われます。近代以前に屡々行なわれたことで、時期的には6月前後が多かったとされます。これと心意を同じくするものは現行の民俗にも多く、たとえば年内に不幸のあった家で12月巳の日などに蛭を搗いて墓前で食べるという四国地方の仏の正月(巳正月、辰巳正月とも言います)は、亡者と最後の食別れをして旧年を脱し、清らかになって新春を迎えようとするものです。また、厄年の者が2月1日に簡単な正月の設けをして年重ねの儀礼を行なうことは各地に見られますが、みな厄のついた旧年から早く逃れようとする心意からきています。同齢者の死に際し蛭などを用意して耳塞ぎの呪法を行なうことも、正月食品の蛭を用いることで一つ年を重ねたことを意味し、死者とは既に同齢でなくなったことを示そうとしたものだと考えられます。

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【2】海外のお正月

 日本では新暦に従ってお正月をお祝いしますが、世界では旧正月でお正月をお祝いする国もまだたくさんあります。
 本節ではその旧正月とは何かを解説した上で、現代の各国のお正月事情について取り上げました。
旧正月


旧正月とは?
 旧正月は旧暦の正月(年初)のことで、旧暦元日(旧暦1月1日)またはそれから始まる数日間のことを言います。なお、ここで言う旧暦とは、狭義には中国や日本、朝鮮半島、ベトナムでかつて使われていた中国暦及びその変種の暦のことですが、広義にはモンゴルのチベット仏教暦や、東南アジア諸国の上座部仏教暦のように他の地域・文化圏の旧暦を含む場合もあります。
 旧暦(日本では天保暦)の1月1日(立春前後、グレゴリオ暦における2月頃)は一般に旧正月と呼ばれます。旧暦の1月1日は通常雨水(2月19日頃)の直前の朔日で、1月21日頃から2月20日頃までを毎年移動します。旧暦で平年だった年は翌年の旧正月は約11日後退し、閏月があれば約18日進むことになります。日本と違い、中国や台湾、韓国、ベトナムなどでは、現在でも新暦の正月よりも旧正月の方が重視され、お年玉もこの日に渡されます。中国大陸や香港、台灣、韓国、ベトナム、モンゴルでは最も重要な祝祭日の一つであり、グレゴリオ暦(新暦)の正月よりもずっと盛大に祝われます。他に中華圏の影響の強い華人(中国系住民)の多い東南アジア諸国や世界各地の中華街などで祝われています。ただし日本では、沖縄や奄美の一部地域や中華街を除けば、専らグレゴリオ暦の正月が祝われます。旧暦の正月は、中国では春節とか過年、農暦新年などと言い、ベトナムではテトと言われています。テトは節という漢字のベトナム語読みに相当する。また、旧暦の1月のことを正月と呼び(旧暦では正月が正式名、1月が異名となります)、旧正月を正旦とも言います。日本でも沖縄県や鹿児島県の奄美群島などの一部地域では旧正月を祝う地方があります。

旧正月を祝う国々
 中国や台湾、韓国、ベトナム、モンゴルで最も大切だとされている祝日が旧正月です。旧正月はかつてこれらの地域が使っていた暦に倣ったお祝いですが、毎年決まった日に行なわれるのではなく、その年によって日にちが異なるのが特徴です。また、上記の国の全てが同じ日程に旧正月を迎えるというわけでもありません。

中国の旧正月~中国のお正月は爆竹の嵐~

春節 中国の旧正月と言うと日本のニュースにもよく取り上げられますが、相当盛大に祝うことで知られています。日本同様に縁起がよいとされている料理を食べます。中国のある地方では、大晦日の夕食には必ず魚が出ます。その地域では魚は豊作を意味する食べ物なのです。またある地域では、餃子や餅を縁起物の食べ物として旧正月に食べたりもします。さらに、大晦日には中国版の紅白歌合戦が放送されます。そして、除夜の鐘の音を聴きながら年を越すのです。新年を迎えた瞬間、中国の人はまず爆竹を鳴らします。爆竹の音で盛大に新年を迎えるのが中国流です。

 中国においても正月は民俗上最も重要な祝日です。現代でも新暦の正月は形式的に祝われるだけで、都市も農村も晴れやかで賑々しい祝祭の気分に包まれるのは一般に春節と呼ばれる農暦(陰暦)の1月1にち前後の数日間です。正月の行事は、まず農暦12月23日(小年)の竈神送りから始まりますこの神は普段から家人の素行に目を光らせており、この夜昇天して玉皇(道教の最高神)に1年間の調査結果を報告し、それによって新年の一家の吉凶が決まるという俗信があるので、告げ口をさせないために手厚く盛大に送るわけです。それが終わるといよいよ歳もおしつまり、人々は新しい堺王爺や門神(魔除けの神)や百分(ポーフエン、天地の百神)の絵像を買い調え、春聯(しゆんれん、目出度い対句を書いた赤く細長い紙)や「福」と書いた四角い紅紙を貼りつけます。大祁日の夜になると年夜飯(年越しの食事)をいただき、守歳(年越しの徹夜)をして新年を待ちます。その間、爆竹が打ち鳴らされ、主婦たちは正月のご馳走である餃子作りに精を出すことになります。年が明けると、神々を拝し(接神)、四方を拝し、祖先の霊を拝して、年長者に正月の挨拶をし(拝年)、子供達はお年玉(圧歳銭)をもらいます。なお、環蘇(とそ)を飲む風習は6世紀の『草楚歳時記』にも見えていますが、中国では早くに廃れてしまいました。外では竜灯舞や獅子舞、貼旱船などが繰り出し、正月気分を盛り上げます。また、正月7日(人日)には、日本の七草粥の源流になった7種の野草のスープを作る風習がありましたが、こちらも今日では殆ど見られなくなりました。正月15日を元宵節と言い、この夜を中心に前後数日間、家々の軒先や街角に色とりどりの提灯が点され、人々は新年最初の満月の夜を楽しむのです。このいわゆる元宵観灯は既に唐代からありましたが、この日をもって正月は終わります。
朝鮮のお正月

 朝鮮の正月は元来一年中の無事を祈って静かに引きこもる月であると考えられていました。元旦には正朝茶礼と言ってい江木の祖先の霊を祀り、新しい衣服を着て家族の年長者に対して新年の挨拶を述べ、年賀に廻ります。この日、日本の雑煮に当たる蛭湯(トックック)や需蛭を食べ、門排(金甲神将図)や歳画(鶏や虎の画や道教系の神像)を門や壁に貼って不祥を払います。また、竹で編んだ柄杓形の申(または竹箒)を戸口や壁にかけて幸福を掻き集める意とします。元旦から12日までは干支で日を呼び、予祝儀礼や年占が結合しています。たとえば最初の子の日にはチュイプルノリ(鼠火戯)と言って田野の草を焼いてネズミや虫の害を防ぎ、辰の日には婦人達が竜卵耀み(天から降った竜が井戸に卵を生むと言い、竜卵の入った水を最初に耀む事)をして農運を占います。また、立春には中国と同様に種々な吉意の文句を大書して貼りつけるのです。正月の行事の大部分は14~15日に集中しており、15日は上元で最初の満月で、秋夕(旧暦8月15日、中秋節)に対して大望日といわれ最も重要な祭日ですが、この日、迎月(タルマジ)という満月祭が行なわれ、人々はこの日の月で1年の吉凶を占い、様々な願い事を祈ります。上元の夜は夜なべしての夜歩きが許され、女子の解放の機会でもあります。一方この日には清浄な男子を祭主として部落祭が行なわれ、一年中の平安と豊穣を祈ります。元旦や立春の行事の大部分が明らかに中国からの受容であると考えられるのに対して、上元の諸行事は朝鮮古来の固有の満月祭を中心とした新年の祭りであるということができるでしょう。
東南アジアのお正月

 タイ国では1889年に太陽暦が採用されましたが、それ以前の太陰暦時代の慣行が踏襲されて、4月13日が元旦とされましたが、1941年には1月1日を元旦とするよう改められました。しかし、この新しい元旦は社会的に内容が殆どなく、大祁日に国王と首相が放送とテレビで年頭の挨拶をしたり、翌朝国王自身が僧侶に王宮で年始の布施をしたり、また、王宮前広場で庶民が多数の僧侶に布施をするのが行事として目立つ程度です。依然として町でも村でも生きている実質上の正月は、4月13日から15日にかけてのソンクランと呼ばれるものの方なのです。この時期は乾季の終末期で、稲の収穫も一切が完了したいわゆる農閑期で、祭りには最適の時期です。また、ソンクランの行事には仏教国タイに相応しく仏教と関わりのあるものが多く見られます。たとえば人々が毎日僧に食事を寄進すること、13日の午後には寺で仏像と住職とを洗い清める行事を行ない、更に14日には日頃尊敬する老齢者を訪ねて、それぞれの手に香りのついた水を注いで清めることなどが行なわれますが、これらは尊敬の念の表明だけでなく、自らの罪の洗い落し、及び釈梼、僧侶、老人などの若返りの意味があります。またこの14日には、人々は寺の境内に土や砂を運び込み、個人、世帯、集団などでそれぞれ仏塔の形のものを競って作られますが、この折には寺の内外で店が出たり催物があったり、楽しい場面が現出します。ソンクランの期間には人々は魚や鳥などの生物を放して、それによって功徳を積む習慣もありました。しかし、正月行事は仏教的行事が全てではなく、ソンクランの賑やかな正月気分をいやが上にも盛り上げるのは実は若い人たちの間での盛んな水の掛け合いで、この時ばかりは若い男女は日頃の慎みも忘れてバケツや洗面器を持って人を追いかけ、水の掛け合いに興じます。これは首都のバンコクなどでは見られなくなりましたが、地方では町でも村でも今でも盛んに行なわれています。これによってやがて来る耕作期に十分な降雨がもたらされるようにとの類感呪術的意味あいもあるとされます。この水掛けもその例ですが、ソンクランには青年男女の間での各種の遊戯が昔は全国的に行なわれて、彼らの笑い声が街や村に夜更けまで聞こえたと言います。ちなみに、地理的に隣接し、歴史的にも関係の深いカンボジアの伝統的正月行事とこのタイの正月行事を比較すると類似する点が多く見られます。元旦の設定それ自体が共通で、4月の最初の満月の日である12日か13日が新年の開始であること、また、村人が互いに水の掛け合いを楽しむこと、青年男女達が日常的な距離を一挙に縮めて綱引きとか布製の鞠の投げ合いを伴う一種の歌垣の遊びなどを楽しむ形で盛んに交歓することなどがその好例だと言えます。東南アジア大陸部では、国や民族の違いを超えて、このように正月行事に共通する要素が少なくありまえせん。
宗教の違いとお正月

 お正月の過ごし方の違いを国ごとで見てゆくに当たって、まず理解しておかなければいけないものがあります。それは宗教とそれぞれの信仰の違いです。日本では余り宗教や信仰が気にされることはありませんが、世界中の国々を見ると、それぞれの宗教毎に異なる文化があり、そして信仰があります。宗教を脇においたままで国民の一大行事を説明することはとても難しいことです。ここでは、大きく宗教ごとに分けてお正月、という概念を説明していきたいと思います。
キリスト教のお正月

 キリスト教徒であるクリスチャンがお正月をどのように過ごすかというと、特にアメリカでは大晦日から新年にかけて友達同士で集まり、ホームパーティーを行なうという光景が多く見られます。元旦はもちろん国民の祝日なので、みな家族や友達と過ごすことが多いです。新年の礼拝を行なう教会もあるため、家庭や宗派によっては元旦から教会に出かけ、ミサに出席するという出席するということもあります。しかし、キリスト教徒にとっては1月1日は日本人ほど特別な日ではありません。あくまでも新しい年の始まりをお祝いする日なのです。

 ちなみに、彼らにとってお正月よりも遥かに重要なイベントといえば、イエス・キリストが誕生した日として祝われるクリスマスで、クリスチャンにとって、クリスマスは1年の中で最も大切な行事といっても過言ではありません。そのため、クリスマスは家族と過ごすという概念が当たり前とされているのです。そして、クリスマス・イブの日には、夕方から夜にかけて家族で教会に行きます。多くの教会では、イブの特別プログラムを開催しているからです。そして翌25日、子供が朝起きてみると、クリスマスツリーの木の下にサンタさんからのプレゼントが置いてあります。プレゼントを開け、朝食をすませると、午前中には家族全員で教会のクリスマスミサへ出かけます。日本のお正月のように、この日はどの家庭も家族皆でのんびりと過ごします。お店なども、お休みになることが多いようです。
正教会の旧正月

 正教会のうち、ロシア正教会、エルサレム総主教庁、グルジア正教会、セルビア正教会、アトス山などは1月14日を正月として祝います。 これらの教会が採用しているユリウス暦は現行のグレゴリオ暦と現在13日の乖離があり、ユリウス暦の元日に相当する日付は西暦2100年まではグレゴリオ暦の1月14日なのです。なお、この正月も日本では旧正月と呼ばれます。
イスラム教のお正月

 世界三大宗教の一つであるイスラム教では、ラマダンの日が日本で言うお正月に当たります。

 イスラム教にはイスラム暦(ヒジュラ暦)という独自の暦があって、この暦は大きな二つの特徴を持っています。それは1年が354日だということと閏年がないということで、そのため、私達の太陽歴を基準として考えると、新年の始まりが毎年11日ずつずれていくのです。そのためイスラム教徒にとっては、日本のような元旦という観念がありません。ただ中には、イスラム暦に則って1年の始まりの日に新年を迎えたことをお祝いする人もあります。そんなイスラム教徒が1年で最も大切に考えているのがラマダンで、これはイスラム暦の第9月の約1ヶ月間のことを言い、イスラム教の創始者であるマホメットが神からコーランを授かった月と言われています。ラマダンにはどのような意味があるのかと言うと、飢えを体験することで食べ物の有難味を知り、日々の恩恵に感謝をするという気づきのための行事とされています。人々はこの期間、日中の飲食を断ちます。そして、ラマダン明けには断食の終わりを祝うイド・アル=フィトルと呼ばれるお祝いがあちこちで開かれます。この日は、朝、祈祷をし、その後、家族や友人の間でパーティーが開かれるのですが、この日から4~10日間は、全てのムスリムにとって祝日です。これが日本でいうお正月に近い行事です。
ヒンズー教のお正月

 ヒンズー教で1年で最も重要な行事は、10月末から11月の間で2日間に渡って開催されるディワリです。インド国民が1年間で最も買い物をする時期だとも言われています。このディワリは、ヒンズー教の神様であるラーマ王子の西インド地方への帰国を祝うためのお祭りです。

 ヒンズー教の人々は、ディワリを迎えるに当たり、まず家の大掃除をします。掃除だけでなく、家の修理や壁のペンキを塗り替えたりもします。日本の大掃除を更に念入りに行なうといった感じです。そして、掃除が終わると、次は家の中や外を飾り物や電飾で彩ります。ちょうどディワリの準備の時期に合わせて各店々がバーゲンを行なうため、お店は買い物客でゴッタ返します。またディワリ当日か前日には、ボーナスも支給されます。更に子供達には、日本でいうところのお年玉が与えられます。
 この二日間は国中、家の電気をずっとつけたまま、ドアも開けたままで過ごします。これはお金の神様が家にやってくるのを迎えるためだとされています。ディワリはサンスクリット語でランプの列を意味するので、家々ではディヤと呼ばれる小さなお皿の上に蝋燭やランプを乗っけて暗闇がないように明るく光で埋め尽くすのです。ディワリ初日は人々は普段通り仕事をするのですが、夜になると昼間と打って変わってお祭り騒ぎとなります。お祈りをしたり、お寺参りをしたり、それが終わると親戚や友人の家を訪ねて挨拶周りをしたり、みんなで花火をしたりといったことがディワリの基本的な過ごし方です。お世話になった人や近所の人には、日本で言う年賀状に当たるディワリ・カードを配るという風習もあります。また、この期間はみなベジタリアンとなり、一切肉は食べません。とは言え、料理は普段よりも品数が増えて、とても豪華になります。
世界のお正月
アメリカの1月1日は友人とホームパーティー

 キリスト教徒の多いアメリカでは、家族でミサに出かけ、のんびりと過ごす家庭が多く見られます。そして、年越しのタイミングには友達と集まってホームパーティーをすることが多いです。年越しの瞬間は、タイムズスクウェアの花火を見てみんなで祝う、というのがスタンダードです。
ブラジル、メキシコ、ボリビアなど:派手な色のパンツを履く

 ブラジルやメキシコ、ボリビアなどの南アメリカの国では、お正月にカラフルな色のパンツを履くことがよしとされています。派手な赤や黄色などのはっきりとした色のパンツを大晦日の夜から履けば、新年に運気を掴むことができると信じられています。新年に派手な色のパンツを履いていると新しい恋人が見つかるとも言われています。赤のパンツは愛ある生活を意味し、黄色のパンツは金銭欲を意味します。お正月にこの地域に行くと、パンツの色でその人が欲していることが分かってしまうと言います。
エクアドル:顔写真を燃やす

 エクアドルでは大晦日に顔写真を燃やす風習があります。地元の人たちは行く年を象徴するような写真を集めて燃やしますが、これには過去を処分する意味合いがあります。エクアドルでは大晦日の夜は国中がを顔写真を燃やす炎の色で埋め尽くされると言います。
プエルトリコ:バケツの水をかける

 プエルトリコでは古い年を洗い流し、新しい年を迎えようという考えがあります。これは日本の年末にする大掃除と同じ概念から来る風習で、大晦日の日には窓からバケツの水を放り投げて古い年を洗い流すという意味があるとされます。日本と同じように家中を大掃除し、お部屋を新年用にデコレーションすると言います。
ボリビア:イエローパンツ

 派手なパンツを履くメキシコの風習にも関連していますが、ボリビアでは新年になる少し前にイエローパンツへ履き替えることが大切だとされています。新年の少し前にイエローパンツへ履き替えると運気も履き変わると信じられているからです。
デンマーク:食器を隣りの家に投げつける

 デンマークの正月の過ごし方は、「お皿を隣の家のドアに投げつける」というものです。お皿を投げつけられた家は幸せになると信じられていて、たくさんのお皿やカップなどの食器を投げつけられた家庭ほどラッキーな家庭だとされています。お正月に家の玄関にたくさんの割れた食器がある家庭はそれだけ多くの忠実な友人を持っているという証だとされています。
エストニア:1日に7回食事をする

 エストニア人は元旦に7回食事をすると言います。これには新年に豊富な食料を確保できるようにという願いが込められており、7回の食事をしたら、その人は次の年に7人分の力を持つことができると言われています。
ロシア:家族で豪華料理を食べる

 キリスト教の宗派の一つであるロシア正教会は、クリスマスの時期が異なり、実際にイエス・キリストの誕生を祝うのは1月7日とされています。これは西洋諸国がグレゴリオ暦を使っているのに対してロシアがユリウス暦という古い暦を使っているためです。12月25日はあくまでもカトリックのクリスマスなので、ロシアではそれほど盛大には祝うことはありません。稀にクリスマスパーティーを開く人がいるくらいです。そして、そもそもロシア正教徒にとっては、クリスマスはもちろん大切な行事なのですが、それよりも新年を迎えることの方が大切だと考える人が多いとされます。ロシアでは、新年は家族で迎えるというのが普通で、また、新年のお祝いの料理は盛大かつ豪華なのも特徴です。新年の夜は、豪華な料理にシャンパンでお祝いをするというのがロシア流です。
フィリピン:ドット柄を着る

 フィリピンでは大晦日にはドット柄を着るという風習があります。そのため、大晦日にフィリピンの街を歩くと、どこもかしこも水玉模様の服を着た人で溢れていると言います。フィリピンではドットの丸い形がコインや富を表しているとされ、新しい年を迎える時にドット柄の洋服を着ているとその人に富をもたらすと信じられているのです。
オーストラリア:気温30度!外でバーベーキュー!

 南半球に位置するオーストラリアのお正月は夏真っ盛りの時期です。最近では30~40℃を超える気温の中で、家族でバーベキューを楽しむという過ごし方が増えては来たものの、かつてはイギリスの植民地であったため、その文化が今も根強く残っており、ワインにローストビーフ、そして、デザートのプディングといった料理を食すというのがスタンダードです。
イラン

 イランの正月は3月21日前後の春分の日で、正月は12日間続き、小正月である13日は1日を郊外の水辺で過ごします。この日は旧暦3月3日の禊の日や西洋の復活祭前後に当たり、卵を割って再生する文化と関係しています。正月には祖霊が大挙してこの世にやってきて、人間や動植物を活気づけると信じられていました。6日は水掛正月でゾロアスターの誕生日でもあります。東方キリスト教の1月6日は受洗日で聖誕日でもあります。中国の1月7日の人日はこれに相当する日であります。そして、正月の祭壇には7種の植物からなるハフト・シーンというものが供えられますが、これは日本の七種粥と同じで、古くは正月の食べ物でした。春分正月は、冬至から3か月の間の物忌みの行事や、まれびとを迎える行事など、一連の冬の祭りの行事の後にやって来ます。年末最後の水曜日の前夜には大晦日の行事が各地で行なわれ、どんどの火で家の炉の火を改め、古い食器を割って新品と取り替えます。古くは小正月にも水辺でのどんどと松明祭典があったと言います。
トルコ:募金運動に参加する

 世界のお正月の風習の中で一番素晴らしい取り組みをしている国がトルコです。トルコの人たちは新年にボランティア活動に参加したり募金活動に参加すると幸福が運ばれてでくると信じています。他人のために何かをすることから1年を始めるというのも平和で素晴らしいお正月の過ごし方です。
インドネシア:お年玉はアンパオ

 イスラム教徒の多いインドネシアでは、特に断食明けの日はみな故郷へ帰省し、家族と共に過ごします。人々は新しい服をおろし、髪や髭、身なりを整え、大人が親族の子供にアンパオという日本でいうお年玉のようなものを配ります。それが終わると、2日目以降からは家族での国内旅行が始まるのですが、電車やバス、飛行機、船などは日本同様に早めに予約しないと取れないこともあると言います。

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【3】正月の行事と作法

 お正月はどのようにお祝いすべきなのでしょうか?
 本節では正しいお正月のお祝いの仕方を取り上げました。
正月事始め

 12月13日は正月事始めと言い、煤払いや松迎えなどの正月の準備に取りかかる日とされています。元々12月中旬ぐらいから正月準備を始めていましたが、12月13日は婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日に当たることから歳神様を迎える準備を始めるのに相応しい日とされ、正月事始めとして定着していきました。また、12月8日の事始めから正月準備をするところもあります。
正月の準備

羽子板 正月の準備は12月13日頃から始めるのが古風で、この日を煤取り節供とか事始め、正月始め、正月おこしなどと言います。江戸の千代田城でも13日が煤掃きで、正月の祭りに先立つ物忌みに関係のある日であったが、後にはただの大掃除と考えられ、期日も正月直前に繰り下げられました。昔は囲炉裏で薪を燃やす生活だったため、煤が溜まったのです。また門松については、江戸時代から急速に広まったのではないかと言われています。宮廷には門松を立てる習慣がありませんし、ある家、ある一族では、先祖が戦いに敗れ、松で目を突いたので門松を立てない家例を守っているし、杉や榊を立てる家もあります。節分の柊と同様にチクチクするものを門口に立てて門守りの呪物としたものが歳神様の依代と理解されるようになったのではないかと考えられます。元々は他人の山から自由に切ってきてよいとされ、山の頂上近くの芯松を取って家に持ち帰ると、歳神様もいっしょに迎えることになりました。山から切ってきた松を屋外の清い場所で数日間休ませておくところがああります。門松を立てる日取りは、九松(苦松に通じる)と言って29日や、一夜松と言って大晦日に立てることを忌みます。餅を搗く日も一定しませんが、その村、その家では慣例があり、大抵年末の1日を定めています。多く搗く家では労力交換のユイで搗いたり、都市部では賃搗きも流行しました。やはり九餅は苦餅に通じるなどと言って29日の餅搗きを忌みます。

 正月には家中が年神祭りの祭場になるので、屋内に注連縄を張り巡らし、或はその簡略形として輪注連などを飾り付けます。年棚は天井から吊ったり、鴨居のところに設え、その年の恵方に向けます。年俵と称する米俵を祭壇にするところもあり、年桶という桶に米やかちぐり、干し柿、スルメ、昆布などを入れ、上に餅を載せたものを飾ったり、三方の上に同様のものを載せて蓬莱とかお手かけ、食積などと言います。九州や四国の一部では幸い木と称し、松などの丸太を土間に横にかけ、魚や大根、炭などを下げます。塩物の鮭や鰤をぶら下げて掛けの魚というところも多くあります。門松の根元には年木とか新木と言って割り木を立てかけておき、これを正月中の燃料とします。この時期、正月準備の品々を整えるため、年の市も開かれます。

 お節料理は、節の日(改まった機会)の料理ということで、本来は正月に限った名称ではありませんでした。食生活の貧しい時代には煮しめやごまめ、昆布巻き、煮豆などのお節料理の品々は最大の御馳走で、正月は台所に立つことも少なくなるので、自然に保存食の趣も出て来ます。大晦日の夜の食事をお節や年取りの膳などと称して、正月の正式の食事を元日でなくこの夜に食べるところもありますが、これは、古くは日没時を1日の境とし、大晦日の夜を既に正月と考えた名残だと言えます。現在も夕食後に再び膳につき、雑煮などを食べて年を取る風習を残す村があります。一般には年越蕎麦を食べることが広まっています。また、大晦日の晩は集落中の人が鎮守の社に集まって御籠りをするとか、家々で過ごす場合は囲炉裏に大火を興して、火を焚き続けて起き明かすものでした。寺院では百八つの除夜の鐘を鳴らして煩悩を払い、朝を迎えますが、古くは明け方についたもので、寺で勤行のために朝晩ついていたのが、1年の総決算としての除夜に移行したのです。
煤払い

 正月に年神様を迎えるために1年の汚れを払い、清めることが煤払いです。

 江戸城で12月13日に煤払いをしていたことから、江戸の庶民もそれに倣って煤払いに精を出したと言われます。昔の火種は薪や炭だったので、天井や壁についた煤の汚れを落とすことが重要だったのでしょう。竹竿の先に藁を取り付けた煤梵天という道具を使って、高いところの煤を払う習慣もありました。また、大店といわれる商家では、煤払いが終わると主人を胴上げし、祝宴を開いたとされます。1年間の汚れを払い隅から隅まできれいにすると、歳神様がたくさんのご利益を持って降りてくると言われており、煤払いも盛大で賑やかな暮らしの行事の一つでした。
松迎え

 門松にする松やお節を調理するための薪などを昔は12月13日に採りに行きましたが、これを松迎えと言います。また、お歳暮を12月13日頃から贈るのは、お歳暮が正月用のお供えものだったことの名残りで、煤払いや松迎えがすみ、年神様やご先祖様を迎える態勢が整う頃に届けるというわけです。
年男

 その年の干支に当たる男性を一般に年男と呼びますが、元々はお正月の行事を取り仕切る人のことを年男と呼んでいました。昔は家長が年男を務め、暮れの大掃除やお正月の飾りつけ、年神様への供え物、お節料理を作るなど、お正月全般を取り仕切っていたのです。このように従来は年男として大変忙しい役目を家長が担っていたのですが、次第に長男や奉公人など若い人が務めるようになってゆきました。
お正月飾りはいつまで?玄関のしめ縄や鏡餅の処分の仕方
お正月に飾りを飾るのはなぜ?

 お正月とは、新年に降りてくる歳神様をお迎えしてお祝いする行事です。歳神様は作物の豊作と家族を幸せにするために高い山から降りてくると言われています。そして、正月飾りは、新年を迎えた家庭に幸せを届けてくれる歳神様を歓迎する気持ちを込めて目印として飾るものです。また、新年がよい一年でありますようにという願いもそこには込められています。
飾りをする前には大掃除を

 お正月飾りは神様をお迎えするためのものですから、飾りをする前に大掃除をしてきれいな状態にしておきましょう。なお、元日に掃除をすると福を掃き出してしまうと言われているので、元日の掃除はよくないとされています。
お正月の飾りはいつから?

 お正月飾りは、関東では12月8日から、関西では12月13日から12月28日までの間に飾ります。30日もよいのですが、旧暦では大晦日になるので、28日までに飾るのがよいとされています。
29日と31日は飾らない

 29日の9は苦に通じ、縁起が悪いとされているので、この日に正月飾りを飾るのは避けた方がよいとされています。また、大晦日である31日に飾るのは一夜飾りと言われ、神様に失礼な行為だとされています。
お正月の飾りはいつまで?

 お正月飾りを外す日は地域によって異なりますが、基本的には松の内と呼ばれる1月7日まで飾るとされています。一般的には1月7日の朝に七草粥を食べた後に外すことが多いです。門松や注連縄はこの日に外し、鏡餅は1月11日の鏡開きの日にお汁粉やお雑煮などにして家族みんなで戴きます。
お正月飾りの種類


門松
 お正月には歳神様が地上に降りて家々にやってくるとされていますが、家を探す時の目印となるのが門松です。歳神様とは、農作物の豊作や家内安全の神様、ご先祖様のことを言い、元々1年中緑で枯れない常盤木には神様が宿るとされていましたが、中でも祀るとか(神様を)待つという意味を連想する松を飾るようになりました。一般的には、家の門や玄関の前に左右対称に二本の門松を飾ります。昔は庭先に一本のみ飾っていましたが、神社に左右対称の守り神が祀られていることから、門松も二本が対になるように飾ることが多くなっています。

注連縄
 太陽の神様である天照大神が岩屋に閉じこもり、世界が真っ暗になってしまったことに困った他の神様達は、天照大神を岩屋から出そうと岩屋の前で宴会をする計画を立てました。その計画に引っかかった天照大神が岩屋から身を乗り出したところを引っ張り出すことに成功したため、神様達が岩屋に注連縄を巻いて二度と開けることができないようにしたというのが注連縄の由来です。また、藁には不浄を払う意味があり、裏白には長寿、ゆずり葉には子孫繁栄の意味が込められています。注連縄は、神様をお迎えできる清浄な場所であることを示すために玄関のドアに吊るします。

鏡餅
 昔から鏡には神様が宿るとされており、神事には欠かすことのできないものとして大切に扱われてきました。現代の薄い鏡と違って、昔の鏡は分厚く丸い形をしていました。お正月にやってきた歳神様の居場所として、鏡の代わりに見た目が似た餅を飾るようになったとされています。この鏡餅は床の間もしくは居間に飾ります。神様への最高のお供え物とされているので、本来床の間に飾るのがよいのですが、ない場合は家族が集まる居間などに飾ります。12月13日~28日の間にお供えするのがよいとされていますが、末広がりの8月が付いた28日が特に縁起がよいため、この日を選ぶことが多いです。

破魔矢
 お正月の縁起物としてお寺や神社から頂く矢のことで、1年の幸運を射止める意味があります。お正月に行なわれていた弓の技を試す射礼という行事が由来とされています。昔は神棚や家の梁に置いたりしていましたが、ない場合は箪笥の上など、出来るだけ目線より上の高いところに飾るようにします。その年の凶の方角に向けて置くことで効力を発揮するとも言われています。

お年玉
 お年玉は、元々は歳神様に奉納された鏡餅を年少者に分け与えたのが始まりだとされています。金品を贈るようになったのは室町時代以降で、それまでは扇や筆などを贈っていました。目上の人が目下の人に贈るのが特徴で、たとえば上司のお子さんなどにお年玉をあげるというのは本来は失礼に当たります。なお、お年玉を渡す時は、新しい門出をお祝いする気持ちを込めて新札を準備します。お札は肖像画が描かれている面を内側に左、右と緩やかに三つ折りにし、小さな袋に包んで渡すようにします。

七草粥
 1月7日の朝にセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの七種類が入った粥を食べることで1年間の無病息災を願います。元々は中国で官吏昇進を決める日だった1月7日の朝に薬草を食べて立身出世を願ったことから始まったとされています。これが日本に伝わって、平安時代には七草粥を食べるようになり、江戸時代には一般に定着しました。

お正月飾りは来年も使える?

 お正月飾りは長い期間使うわけではないので、処分するのが勿体ないと思う人も多いと思いますが、しかし、お正月飾りは降りてきた歳神様を天に送り返すという意味もあります。神事ですから、勿体ないという気持ちは割り切って使用済みの正月飾りは直ぐに処分することが大切です。
お正月飾りの処分方法

 神様のために用意したお正月飾りですが、どのように処分するか悩みます。お正月飾りは1月15日の小正月に行なわれるどんど焼き(左義長)でお焚きあげするのが一般的です。どんど焼きとは、正月飾りとして使ったものを一斉に集めて火で燃やす行事です。お正月に降りてきた神様は、どんど焼きの煙に乗って天に帰るとされているので、お見送りするための行事とも言われています。どんど焼きに行くのが難しい時はゴミとして捨てるしかありませんが、どんど焼きの火に当たることで1年間健康でいられるという意味合いもあるので、ぜひ時間を作って出かけてみましょう。また、神社では数日前からお炊き上げしたいものを集めていたりしますので、事前にそちらで受け付けてもらうとよいでしょう。
参考文献と参考情報


◆参考図書&資料
飯倉晴武『日本人のしきたり 正月行事、豆まき、大安吉日、厄年…に込められた知恵と心』プレイブックスインテリジェンス
飯倉晴武・編著
『日本人のしきたり 正月行事、豆まき、大安吉日、厄年…に込められた知恵と心』
プレイブックスインテリジェンス、
青春出版社・2003年01月刊、667円
四季を重んじ、人生の節目を大切にする…いまに残しておきたい伝統の原点をさぐる。
『子どもに伝えたい春夏秋冬 和の行事を楽しむ絵本』永岡書店
三浦康子・著/かとーゆーこ・絵
『子どもに伝えたい春夏秋冬 和の行事を楽しむ絵本』
永岡書店・2014年04月刊、1600円
お正月やひな祭り、お花見、お盆、お祭りなど、季節の行事を親子でいっしょに学べる絵本。由来やしきたり、遊び方や箸の持ち方、衣服のたたみ方など、行事を子育てに役立てるためのコツを、豊富なイラストで楽しく紹介しています。
岩井宏実『正月はなぜめでたいか 暮らしの中の民俗学』大月書店
岩井宏実・著
『正月はなぜめでたいか 暮らしの中の民俗学』
大月書店・1985年11月刊、1300円
宮田登『正月とハレの日の民俗学』大和書房
宮田登・著
『正月とハレの日の民俗学』
大和書房・1997年04月刊、2400円
正月を中心とするハレの日は,ケガレを祓いケを充実させる役割を担った。日本人の休日とは。
お正月のいわれ - 紀文のお正月
https://www.kibun.co.jp/knowledge/shogatsu/iware/
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