【1】砂糖とは何か? |
塩と共に普段の食生活に欠かせない砂糖ですが、砂糖とは一体どのような甘味料なのでしょうか?
本節では、砂糖の種類や生産法に加え、古来よりの日本人と砂糖の関わりを取り上げ解説しました。
|
砂糖とは |
砂糖とは? |
砂糖(sugar)は甘みを持つ調味料(甘味料)です。砂糖は蔗(ショ)糖を主体とする工業製品の総称で、化学名としては蔗糖を使います。蔗糖は多くの植物によって光合成産物として生産され、また、物質としては糖の結晶で、一般に多用されるいわゆる白砂糖の主な成分はスクロースです。
|
砂糖の生産と消費 |
■ |
世界 |
|
砂糖の生産量は年々増加しており、1980年代には年1億トン前後であったものが、2000年代には年1.4〜1.5億トン程度になっています。砂糖の全生産量のうち約30%が貿易で取引されており、また、その生産量の内訳は、サトウキビによるものが約70%、テンサイによるものが約30%とされます。サトウキビからの砂糖の主要生産国はブラジルやインド、中国などです。ブラジルは中国の約3倍の生産量であり、インドは中国の約2倍の生産量だとされています。なお、テンサイからの砂糖の主要生産国はEU各国(ドイツ・フランス他)とアメリカ合衆国、ロシアです。その一方で、輸出国は主要生産国とは異なっています。これは、主要生産国の大半が、生産量は多いものの、国内需要を満たすことができないことによります。なお、世界最大の輸出国はブラジルであり、2008年には2025万トン、世界の総輸出量の59.6%を占め、圧倒的なシェアを持っており、次いでタイが510万トン(15.0%)、オーストラリアが389万トン(11.5%)、グアテマラが159万トン(4.7%)、南アフリカが80万トン(2.4%)と続きます。 |
|
■ |
日本 |
|
砂糖の日本国内消費・生産は、1995〜2004年度の10年間平均値(1995年10月〜2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%、輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%、サトウキビ約20%)です。年毎の動向を見ると、総消費量は、1985年には一人当たり21.9kgだったものが、2010年には16.4kgと大きく減少していましたが、ここ数年は下げ止まっている状態です。なお、主要国の国民1人1日当りの砂糖消費量で比較した場合、意外なことに日本人の砂糖消費量は先進国の中では非常に少ない方に分類されます。また、日本の砂糖の輸入は、タイが約4割、オーストラリアが約4割、南アフリカが約1割をそれぞれ占めており、この3カ国で9割以上の輸入を賄っています。なお、南北に長い日本列島はサトウキビの栽培に適した亜熱帯とテンサイ(ビート)栽培に適した冷帯の両方が存在します。国産量は微増傾向にありますが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にあります。サトウキビの主たる生産地は沖縄県や鹿児島県で、戦前は台湾で砂糖が大量に生産されていました。一方、テンサイの生産地は主に北海道です。 |
|
|
調理上の特性 |
砂糖は単に食品に甘味をつけるためだけではなく、たとえばタンパク質の熱凝固抑制や、或は果物のペクチンをゲル化させ、かつ水分活性を抑えることで日持ちのするジャムにするペクチンのゲル化、また、デンプンの老化を抑制して餅菓子などを柔らかく保つためのデンプンの老化抑制、及びアミノ酸とのメイラード反応によって食品によい色と香りを与える着色・着香、そして、油脂の酸化抑制やイースト菌の発酵促進など、食品に対して様々な効果を与えるためにも利用されています。
砂糖は日本料理においては料理の基本であるとされる「さしすせそ」の一つに数えられるなど、中心的な調味料の一つとなっている。これは、日本料理において、魚や野菜の煮物などを中心に醤油と砂糖の組み合わせを基本とする料理が多いことによります。一方、西洋料理や中華料理では料理そのものに砂糖を使用することは多くないため、家庭における砂糖の消費量は食の洋風化のバロメーターとなっています。その証拠に、1人当たり砂糖消費量は経済成長に伴って1970年までは増加し続けていましたが、その後食の洋風化が進むにつれて減少し、1985年には1人当たり21.9kgだったものが、2010年には16.4kgまで減少しています。
|
|
砂糖の種類 |
砂糖は原料植物や製造法、製品などによって、それぞれ異なった分類がされます。
■ |
原料による分類 |
|
原料植物による分類では、カンショ糖(サトウキビ)とテンサイ糖(ビート糖とも言う)が代表的なものです。この他、カエデ糖(サトウカエデ)やヤシ糖(サトウヤシ)、ソルガムシュガー(サトウモロコシ)なども外国では一部生産されています。 |
|
■ |
製法による分類 |
|
甘藷糖は通常サトウキビ栽培地周辺で原料糖(糖度96〜98度の黄褐色の結晶)にし、これを消費地に運んで白砂糖やグラニュ糖などに精製されます。しかし、場合によっては産地で直接白い砂糖にまで精製されることがあり、これを耕地白糖と呼びます。なお、テンサイ糖は殆どの場合が耕地白糖です。大規模な工業生産の場合には大体このようになりますが、伝統的な小規模生産の場合には、サトウキビからの搾汁をそのまま濃縮する黒砂糖、或は赤砂糖などと呼ばれるものが作られます。近代工場で製造されるものは、遠心分離機を用いて結晶と蜜を分離するので分蜜糖と呼ばれ、黒砂糖の場合には、糖蜜分をもそのまま煮詰めて固めるために含蜜糖と呼ばれます。もっとも耕地白糖や精製糖の中にも、それぞれ車糖、白ざら(双)糖などもあります。 |
|
■ |
製品の種類 |
|
砂糖製品は、結晶の大きさや蔗糖糖含量、加工形態などによって非常に多くの種類が存在しますが、これを大きく分類すると、ざらめ(双目)糖と車糖とに分けることができます。前者は結晶が大きく、砂糖純度が100%に近い高純度の糖で、別名ハードシュガーと呼ばれます。一方、後者は結晶が小さく、転化糖が加えられており、しっとりした感じがあるので、ソフトシュガーと呼ばれています。
- 白ざら糖:
結晶がグラニュ糖より大きく、無色透明で光沢があり、糖度99.9%と最も純度の高い高級な砂糖。転化糖含量が低いので高温加熱しても着色せず、キャンディや高級菓子や飲料に多く使わますが、家庭用として使われる量は多くありません。
- 中ざら糖:
結晶の大きさは白ざら糖と殆ど同じながら黄褐色をしている純度の高い砂糖で、一種の風味を持ち、煮物などに用いられます。
- グラニュー糖:
結晶が上白糖よりやや大きく、さらさらした感じの高純度の砂糖で、癖のない淡白な甘みを持っています。コーヒーや紅茶に最適で、菓子や料理用にも多く用いられています。純度は99.8%以上で、ほぼ純粋な砂糖と考えられ、ざらめよりも結晶が小さいために水に溶けやすい性質があります。このままの形で使うか、角砂糖の原料にもなります。
- 上白糖:
日本人好みのしっとりしたソフトな甘みを持ち、一般に白砂糖と呼ばれています。これは結晶に転化糖を添加しているもので、調味料や菓子用、飲物用に用いられ、日本で使われる砂糖の50%を占める万能型の砂糖です。
- 中白糖:
上白糖に似ていますが、純度がやや低いので淡黄色を呈しています。転化糖含量が高いため、甘みを強く感じますが、最近は殆ど生産されていません。
- 三温糖:
中白糖よりも更に純度が低く、また灰分などを多く含んでいるので、中白糖よりも色が濃く、薄茶色で特有の風味を持っており、煮物やつくだ煮などに使われます。
- 角砂糖:
グラニュ糖を四角に固めたもので、コーヒーや紅茶などに用いられます。
- 氷砂糖:
純度99〜99.5%の砂糖溶液から大型結晶を作られたもので、キャンディとしてそのまま食べることもできますし、果実酒用にも広く使われています。
- 粉砂糖:
白ざら糖やグラニュー糖などの純度の高い砂糖を細かく磨り潰したもので、果物にかけたり、ケーキやクッキーのアイシング、洋菓子のデコレーションに使います。
- 顆粒(かりゆう)状糖:
多孔質の顆粒状をした高純度の砂糖で、非常に水に溶解しやすいので、アイスコーヒーや果物にふりかけて用います。新しいタイプの砂糖です。
- 和三盆:
日本の伝統的な製法で作る淡い卵色の砂糖で、結晶が非常に細かく、特有の風味を持っているため、和菓子の原料として使われています。徳島県と香川県が産地として有名です。
- 黒砂糖:
サトウキビの搾汁を濃縮した含蜜糖の一種で、沖縄や鹿児島で作られています。蔗糖純度は85%前後ながら、甘さは却って濃厚で、強い風味を持っています。かりん糖や羊羹などに用いられています。
- その他:
この他にも、液状糖(液糖)や種々の再生糖があります。
|
|
|
砂糖の製法 |
■ |
甘藷糖の製法 |
|
- 原料糖の製造:
サトウキビの生産地は熱帯、亜熱帯地域にあり、一般に砂糖の消費地から離れている場合が多いとされます。収穫したサトウキビの形での運搬は不便なために、搾汁や濃縮、結晶の工程で粗糖を作り、腐敗しにくく貯蔵、輸送に便利な形に変えます。
- 精製糖の製法:
サトウキビから製造された原料糖は消費国に輸送され、ここで最終商品の形に精製、加工されます。原料糖を蜜で洗浄し、結晶表面に付着している不純物を除いた後に温水で溶解し、石灰を加えて炭酸ガスを吹き込む炭酸飽充によって炭酸石灰の沈殿を作り、これに不純物を吸着させて不純物を除去、その後、活性炭やイオン交換樹脂などで精製・脱色して濃縮し、結晶化、結晶分離を繰り返して、種々の純度の性質の異なる製品を製造します。
|
|
■ |
テンサイ糖の製法 |
|
テンサイ糖は代表的な耕地白糖なので、原料を収穫してから最終商品までを一つの工場内で製造するのが特徴です。甘藷糖と最も異なるのは、搾汁ではなく、テンサイを細長い小片に細切し、温水を用いてショ糖分を抽出する点です。なお、精製工程の原理は精製糖と基本的に同じです。 |
|
■ |
副産物の利用 |
|
サトウキビの圧搾滓はバガスと呼ばれ、原料糖工場のボイラーの燃料とされますが、余剰の出る場合には圧搾して建築資材や土壌改良剤として畑へ戻しています。各工程から最終的に出る糖蜜はアルコールや酢酸、アミノ酸の発酵原料として使われる以外に、酵母の生産用糖原として利用されています。なお、テンサイ糖のパルプは、家畜飼料として使われます。ちなみに、近年はセルロース資源として利用する目的でセルラーゼによる酵素分解の研究も行なわれています。 |
|
|
日本人と砂糖 |
奈良時代 |
奈良時代に来朝した鑑真によって754年(天平勝宝6)に砂糖が初めて日本に伝えられたとされています。これは鑑真の第1次渡航の際の積荷の中に石蜜や蔗糖の名が見えるためで、この石蜜を氷砂糖とする説も多いのです。しかし、鑑真の渡航は難破、遭難をくり返した末、6度目にやっと成功したもので、最後の航海時にもそれらを積んでいたかどうかは不明です。ただし、砂糖が奈良時代に伝えられていたことは正倉院宝物の薬剤の中に蔗糖があることでも明らかです。中国においては唐の太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたこと(それ以前の中国では砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた)により持ち運びが簡便になったためとも考えられています。ちなみに、787年(延暦6)6月、宝物の曝涼(ばくりよう)が行なわれた時、どういうわけか、その蔗糖の量が増えていたという記録があります。何れにせよ、砂糖は当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり、医薬品としても扱われていました。
|
平安時代 |
平安時代後期になると、本草和名に見られるように製糖の知識もある程度普及し、砂糖はお菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていました。たとえば『後二条師通記』寛治5年(1091)10月25日条を見ると、藤原師通はその日橘俊綱から砂糖を贈られ、それを持参した使者が「これは唐菓物(からくだもの)だということです」と言ったことを記しています。平安後期、砂糖は宋との私貿易によって僅かながら舶載されており、薬品ではなく菓子として認識されるようになりつつあったことが分かります。
|
室町時代 |
室町期に入ると、砂糖は急激に注目されるようになります。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹や砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってきます。名に「砂糖」と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかるでしょう。これは輸入も消費も著しく増加したためですが、それでもなお羊羹や饅頭でさえ砂糖を使うものが稀だったことの証拠と言っては何ですが、室町末期、奈良興福寺の塔頭・多聞院の住職英俊は、1579年(天正7)2月と83年閏正月に堺まで人をやって砂糖を購入していますが、その代金は1斤当たり最初が185文、2回目が140文強であったと言います。単に「サタウ」としてあるので黒砂糖だった可能性もありますが、1回目の直後に買った素麺が12把で100文だったことから、黒砂糖と言えどもかなり高価なものだったことが分かります。毒物と称して主人が壺に秘蔵していた「黒うどんみりとして、うまさうなもの」を砂糖だと知って、太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう有名な狂言『附子(ぶす)』の滑稽には、当時の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されています。
やがて戦国時代に南蛮貿易が開始されると、宣教師達によって様々な砂糖菓子が持ち込まれ、更にアジアから砂糖の輸入が盛んになって、徐々に砂糖の消費量は増大してゆくのです。
|
江戸時代の砂糖製造 |
江戸時代初期、薩摩藩支配下の琉球王国では、1623年に儀間真常が部下を明の福州に派遣してサトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせ、帰国した部下から得た知識を元に砂糖生産を奨励、やがて砂糖は琉球の特産品となってゆきました。
江戸時代には、海外からの主要な輸入品の一つに砂糖が上げられるようになり、オランダや中国の貿易船がバラスト代わりの底荷として大量の砂糖を出島に持ち込みました。このころ日本からは大量の金・銀が産出されており、その経済力をバックに砂糖は高値で輸入され、大量の砂糖供給は砂糖を使った和菓子の発達をもたらします。しかし、17世紀後半には金銀は枯渇し、金銀流出の原因の一つとなっていた砂糖輸入を減らすために、江戸時代の将軍・徳川吉宗が琉球からサトウキビを取り寄せて江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化を目論みました。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励しました。特に高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励、天保期には国産白砂糖の占有率6割を占めるまでになりました。また、高松藩はこのころ和三盆の開発に成功、和三盆は高級砂糖として現在も製造されています。こうした動きによって、19世紀に入ると砂糖のかなりは日本国内で賄えるようになってゆきました。天保元年から3年(1830年〜1832年)には、砂糖の大坂での取引量は輸入糖430万斤と国産糖2320万斤、合わせて2750万斤(1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年(1865年)にはその2倍となりました。一方、このころ大阪の儒者である中井履軒は著書『老婆心』の中で砂糖の害を述べ、砂糖亡国論を唱えています。また、幕府も文政元年(1818年)にサトウキビの作付け制限を布告していますが、実効は上がらず、砂糖生産は増え続けました。江戸時代、国内の砂糖の流通は砂糖問屋が行なっていたが、幕府崩壊と共に独占体制が崩れ、自由な流通が行なわれることになり、大日本製糖など独占的な企業体も現われることになります。
近世初期の日本の砂糖は中国やオランダ船が舶載するいわゆる唐砂糖のみで、幕府は初輸入量をめ350万斤に制限していましたが、1715年(正徳5)には430万斤に改定されています。1673年(延宝1)のオランダ人の報告書では、100斤につき中国での仕入値は氷砂糖銀36匁、白糖20匁、黒糖14匁が、日本での取引値はそれぞれ70匁、60匁、50匁の高値だったと言います。国産糖の初めは琉球で、1623年儀間真常(ぎましんじよう)が家人を福建に遣わして伝習させたのに始まるとされますが、事実は1392年福建からいわゆる36姓の唐人が帰化したときにもたらしたものだとも言います。奄美大島糖業の創始については、「大和浜の直川智(すなおかわち)が中国に漂着滞在中に技術を習得して、秘かに蔗苗を携え帰り、1610年に製糖を始めた」という慶長創業説が1880年の綿糖共進会への報告書以来通説化していますが、1850‐55年(嘉永3‐安政2)に書かれた『南島雑話』や和家文書(にぎけもんじよ)では、「元禄の初年に川智の孫の嘉和知(かわち)が琉球より伝習し帰り、大和浜西浜原にて試製して120斤を得、それより段々と大島中に流行した」とされており、この元禄創業説が正しいと考えられます。薩摩藩では1695年(元禄8)黍検者(きびけんしや)を派遣、また、その3年後には黍横目と津口横目、竹木横目を設けて産糖支配に乗り出し、早くも1713年(正徳3)には大坂に黒糖を積み登ししています。45年(延享2)には、貢米は砂糖1斤・米3合替で代納するといういわゆる〈延享の換糖上納令〉を出し、さらに1777年(安永6)には奄美大島や徳之島、喜界島の3島砂糖総買入制を実施しています。1830年(天保1)には藩債が500万両に達し、破局の財政再建のために有名な天保の改革が行なわれますが、1830〜1839年の10年間の大坂積登砂糖金額は235万両ですから、砂糖の果たした役割は大きいと言えるでしょう。1849年(嘉永2)の仕登糖は1610万斤、うち450万斤が琉球糖でしたが、薩摩藩は奄美の他に琉球や種子島など領内海辺の産糖も全て抑え、1854年(安政1)以来は沖永良部島や与論島産の砂糖も専売網に組み込みますが、その過酷さから1864年(元治1)には薩摩藩には稀有と言われた一揆が徳之島犬田布に勃発します。廃藩置県後も鹿児島県は政府の砂糖勝手売買の令を秘して大島商社を設立、藩政時代同様の専売制を引き継がせたため、各島に猛烈な自由売買請願運動が起こり、いわゆる「勝手世騒動」なる大事件となりましたが、これは1878年に解決します。その一方で、薩摩藩以外では、徳川吉宗はじめ財政難に苦しむ諸大名の奨励や、『農業全書』(1697)の著者・宮崎安貞や池上幸豊、大蔵永常、平賀源内など識者の唱導によって各地に糖業が起こりますが、1794年(寛政6)には高松藩が大坂に砂糖の積み登しをはじめ、1835年(天保6)になると、大坂市場には讃岐や阿波、土佐、和泉、河内、紀伊、駿河、遠江、三河などからの廻着高が1123万斤にも達し、中には讃岐や阿波などの三盆白なる上品さえも登場してきました。これら諸国産の砂糖は「和製砂糖」と名づけ、薩藩糖その形より「丸玉」または「たどん」と称しました。薩摩藩でも白糖製造に1767年(明和4)以来着手し、殊に1865年(慶応1)にはイギリス人を招いて白糖の洋式製造を始めたが成功せず、国産糖における独占的地位を失ってゆきました。
|
明治時代以降 |
明治時代中期、日清戦争の結果として台湾が日本領となると、台湾総督府は糖業を中心とした開発を行ない、これに伴って日本には大量の砂糖が供給されることとなります。これによって沖縄を除く日本本土ではサトウキビの生産が衰退しましたが、台湾での増産によって生産量は増大を続け、昭和に入ると砂糖の自給をほぼ達成しました。一方、北海道においては明治初期にテンサイの生産が試みられましたが、一度失敗し、昭和期に入ってやっと商業ベースに乗るようになります。この砂糖生産の拡大と生活水準の向上によって砂糖の消費量も増大し、1939年には一人当たり砂糖消費量が16.28kgと戦前の最高値に達し、2010年の消費量(16.4kg)とほぼ変わらないところまで消費が伸びていました。しかしその後、第二次世界大戦の戦況の悪化に伴って砂糖の消費量は激減、1945年の敗戦によって砂糖生産の中心地であった台湾を失ったことで砂糖の生産流通は一時大打撃を受け、1946年の一人当たり消費量は0.20kgまで落ち込みますが、その後1952年に砂糖の配給が終了して生産が復活、日本の経済復興と共に再び潤沢に砂糖が供給されるようになったのです。
|
日本の製糖業 |
サトウキビやテンサイなどの原料作物から砂糖製品を作る工業を製糖業と言いますが、日本の製糖業は、国内の原料作物から砂糖を作る砂糖製造業と外国から粗糖を輸入してそれを精製する砂糖精製業とに分けられます。日本では北海道でテンサイが、沖縄や鹿児島でサトウキビが作られています。国産糖の生産量は73万t(1981砂糖年度、1981年10月〜82年9月)で総需要量269万tの27.1%を占めており、砂糖自給率も1975砂糖年度の15.6%から大幅に上昇しています。これには、テンサイが北海道の、サトウキビが特に沖縄の農業の基幹作物であるため、政府がこれらの生産を振興していることも大きいです。国産糖保護のため、輸入される粗糖には高い関税や調整金が課されているからです。また、国民一人当りの砂糖消費量は、1981砂糖年度で約23kgで、1970年代後半から減少ないし横ばい状態となっていますが、これには消費者の砂糖離れと競合商品の異性化糖の急増がその背景にあります。
日本において、近代的な製糖業が始まったのは明治に入ってからで、1896年、東京に日本精製糖が設立されたことがその始まりです。この会社は、鈴木藤三郎が1883年に静岡に設立した氷砂糖をつくる鈴木製糖所を継承したものです。また、1898年には渋沢栄一により日本精糖が大阪に設立されています。その後1906年には日本精製糖が日本精糖を吸収合併する形で大日本製糖が誕生します。しかし、日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは、日清戦争の結果、台湾が日本の領土となってからで、1900年には台湾製糖(現・台糖)が設立されています。この台湾における製糖業は植民地経営の主軸となり、大規模な奨励策を受けて生産能力は飛躍的に拡大、1940年代には産出量が年間150万t以上になり、国内消費量(120万t)を越えて完全な過剰生産になるまでに至ります。第2次大戦の敗戦と共に、台湾及び南洋諸島などの植民地を返還するに及んで、日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの砂糖精糖業として再出発することになったのです。
戦後の製糖業は、1947〜1948年にキューバの粗糖が主食代替品として配給されたことに始まります。これを契機として、1950年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため、日本各地に製糖会社が作られました。この時期、粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され、外貨を割り当てられたメーカーは、安い輸入価格と国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ましたが、しかし、このことは同時に不必要な設備拡張をもたらします。その後、1963年の原料糖の輸入自由化と共に設備能力の過剰が明白となり、市価は製造コストを下回るようになり、精糖各社は赤字決算を続けるようになります。また、製糖産業は市況産業であるため、糖価を安定させるために、1965年〈糖価安定法〉が公布されましたが、この法律には数量制限の規定がなく、さらに砂糖が差別化のしにくい商品のため、シェア拡大には価格引下げしかないこともあって、市価はこの法律で指定された目標価格より遙かに安く推移しました。このため、適正価格維持のため、及び業界の構造改善を目的とした設備の休止や廃棄のための法律が制定されています。この業界は原料の輸入から製品の販売まで商社との結びつきが強く、原糖の輸入自由化以降の不況の中で、今も商社を中心とした業界再編が行なわれています。
|
|
[ ページトップ ] [アドバイス トップ]
|
|
【2】砂糖の世界史〜プランテーションと奴隷労働、そして砂糖革命〜 |
砂糖とその生産及び消費は、近世から近現代に至る世界経済と密接な結びつきがある製品です。
本節では、その砂糖生産の歴史を振り返りつつ、近代における砂糖革命とその問題点を取り上げました。
|
砂糖生産とその歴史 |
古代 |
砂糖生産の歴史は古く、約2500年前に東インドでサトウキビの搾り汁を煮詰めて砂糖を作る方法が発明されたと考えられています。たとえばカウティリヤにより紀元前4世紀後半に書かれたとされる古典『アルタシャーストラ』には、純度が一番低いグダ、キャンディの語源とされるカンダ、純度が最も高いサルカラの3種類の砂糖の説明が記載されています。ちなみに、サルカラは英語のSugarやフランス語のSucreの語源になっています。さらに、パタンジャリが紀元前400〜200年の間に書いたとされるサンスクリット文法の解説書『マハーバーシャ』には、砂糖を加えたライスプディングや発酵飲料などの作り方が記載されています。また、砂糖は病気による衰弱や疲労の回復に効果があるとされ、薬としても用いられました。当時は「インドの塩」などとも呼ばれ、塩などと関連づけられていました。
ダレイオス1世はインド遠征の際にサトウキビをペルシアに持ち帰り、国家機密として輸出と栽培を独占しますが、その後サトウキビは戦乱と共に黒海方面やペルシャ湾岸、中東一帯に広がってゆきました。また、フェニキア人や古代エジプト人は、砂糖を香辛料や生薬として扱いました。一方、中国での砂糖製造の歴史は古く、主に広東地方で行なわれていました。唐代の本草学者である蘇敬の『博物誌』には、太宗は砂糖の製造技術を学ぶためにインド、特にベンガルに職人を派遣したとも記述されています。また、古代ギリシャのテオフラストスは紀元前371の『植物学概論』で「葦から採れる蜜」について書き留めています。また、帝政ローマ時代のギリシア人医師ディオスコリデスは砂糖をサッカロン(saccharon)と呼び、考察を行ないますが、プリニウスやストラボンなど以後のローマ時代の学者はこれに倣ったのです。
|
中世 |
ヨーロッパには、まずヴェネツィア共和国が966年に作った貨物集散所に中東から来る砂糖がいったん集積される仕組みができあがります。そして、11世紀末に十字軍がキプロスにサトウキビを持ち帰ることで、地中海周辺でサトウキビが栽培されるようになります。まず14世紀にはシチリアで、次いで15世紀初頭にはバレンシア地方へと広がり、この地方が砂糖の生産地となったものの、15世紀に入ると大西洋の探検が少しずつ始まり、スペインがカナリア諸島で、ポルトガルがマデイラ諸島とアゾレス諸島でそれぞれサトウキビ栽培を開始、大きな利益を上げるようになりました。この島々からの砂糖は1460年代には既にヨーロッパへと伝わり、安価で大量の砂糖を前にシチリアやバレンシアでの砂糖生産は衰退したのです。
|
近世〜テンサイ糖の発見〜 |
砂糖の生産は、サトウキビから採るものとテンサイから採るものとに大別されますが、後者は、1747年にプロイセンの化学者であるアンドレアス・マルクグラーフがテンサイ中に砂糖と同じ成分を発見し、この成分を取り出すことに成功したことによって広まったものです。かくてマルクグラーフはテンサイ糖製造の道を開き、19世紀にはドイツ、オーストリア、ハンガリーを中心に砂糖生産が急速に広まりました。
1806年から1813年の大陸封鎖による影響でイギリスからヨーロッパ大陸へ砂糖が供給されなくなったため、ナポレオンが砂糖の自給自足を目的としてテンサイに注目、フランスやドイツをはじめヨーロッパ各地に甜菜糖業の大規模生産が広まり製糖業が発達しました。そして、ナポレオン戦争後、砂糖の供給が元に戻ってもテンサイの増産は続き、砂糖生産の柱の一つとなってゆきます。かくしてテンサイ糖は1859年には世界の砂糖生産の4分の1、1894年には5分の3を占めるほどになりますが、この結果、近年ではロシア、キューバ、アメリカ、ブラジル、インドなどが主要な砂糖生産国となっています。
|
近代〜一般市民のものとなった砂糖〜 |
テンサイ糖の発見と生産拡大以降も、サトウキビからの砂糖生産は増加の一途をたどります。19世紀に入ると、イギリスはインド洋のモーリシャスや南太平洋のフィジーにもサトウキビを導入、プランテーションを建設します。既に奴隷制はイギリスでは廃止されていたため、ここでの主な労働力は同じイギリス領のインドから呼ばれたインド人で、そのため、現在でもこの両国においてはインド系住民が多いのです。一方西半球においては、それまでの西インド諸島からキューバ]]へと生産の中心が移り、1860年にはキューバでの砂糖生産は世界の4分の1を占めるまでになっていました。こうして砂糖が増産され続けたため、19世紀末には価格が低落し、高級嗜好品だった砂糖は一般市民や労働者層にも手に入るものとなりました。この時期の砂糖消費の増加は非アルコール飲料の消費増加と軌を一にしていますが、これは砂糖入り飲料(イギリスでは砂糖入り紅茶、ヨーロッパ大陸では砂糖入りコーヒー)とパンの組み合わせが庶民の安く手軽な朝食として取り入れられ、一般的なものとなっていったことにもよります。
|
|
砂糖と世界経済 |
砂糖生産の歴史と世界経済 |
砂糖の生産は、サトウキビから採るものと、18世紀末に開発されたテンサイから採るものとに大別されますが、歴史的に重要なのはサトウキビです。サトウキビの原産地は南太平洋の島々ですが、特にニューギニアが原産と考えられ、そこから東南アジアを経て、インドに伝わったとされていますが、インド原産説もあります。そして、7世紀頃にはアラブ人によって地中海東部に砂糖がもたらしされます。しかし、その後、生産が急増してヨーロッパ人の食生活に決定的な影響を与えるようになったのは、16世紀に新世界の植民地が開発されて以来のことです。すなわち、16世紀にはまずポルトガル領のブラジルにサトウキビ・プランテーションが開かれ、次いで17世紀にはオランダ人の手によってイギリス領西インド諸島のバルバドスやネビスに移植されます。砂糖はどんな土地でも人々の嗜好に合致する典型的な世界商品で、そのため一種の換金作物として熱帯植民地の最大の生産物となったのです。そのため、砂糖の生産と流通をたどることによって近世の世界経済の動向を描くことも可能ですらあるのです。
|
ブルジョアの利害と砂糖生産 |
近世初頭以来、砂糖生産は激増し続け、砂糖の消費量が生活水準の指標と考えられてきました。16〜17世紀のヨーロッパでは、なお砂糖はごく上流の人々にしか用いられず、薬とも見做されるほどの貴重品でしたが、17世紀末以降、特に紅茶の普及に伴って、イギリスを中心にその消費が一般化しました。そのため、ブドウ酒が豊富で紅茶が余り普及しなかったフランスに比べると、1775年頃でもイギリスでは3倍程度の国内消費(人口1人当りにすると8〜9倍)があったとされます。ビクトリア朝のイギリスでは、貧民にとってさえ、それが重要なカロリー源の一つになっていました。従って1807年の奴隷貿易の廃止や33年の奴隷制廃止は、W・ウィルバーフォースらによる宗教的かつ人道主義的な運動の成果と言うだけでなく、国際的に見て高価なイギリス領西インド諸島産砂糖への保護政策を廃し、労働者のために安価な朝食を確保しようとするブルジョアジーの利害に沿った動きであったとも言えるのです。
|
新大陸と砂糖〜砂糖革命と黒人奴隷〜 |
砂糖の生産は17世紀後半以降ジャマイカにも広がり、18世紀にはこの島とフランス領のマルティニク、グアドループ両島が生産の中心となります。以上のどの植民地でも、サトウキビは黒人奴隷を労働力として栽培された上、モノカルチャー化が進行したので、社会そのものが少数の白人プランターと大量の黒人奴隷によって構成されるようになってゆくのですが、このような変化を一般に「砂糖革命
SugarRevolution」と呼びます。1804年にハイチ革命が起こり、1807年にはイギリスが奴隷貿易を廃止すると、砂糖生産の中心はキューバに移ります。また、この頃にはモーリシャスやジャワ、フィリピン、レユニオン、ルイジアナなどにも栽培が広がっており、1837年にはハワイ、1850年には南アフリカのナタール、1864年にオーストラリアのクイーンズランドにも、それぞれ導入されます。奴隷貿易や奴隷制度が廃止された後も、サトウキビは主にアジア系の契約労働者(債務に縛られた半ば不自由な労働力)によって栽培されていたため、かつてのサトウキビ・プランテーション地帯は未だに深刻な社会矛盾を抱え込んでいる状態です。主食生産を含む他のあらゆる経済活動を犠牲にするモノカルチャーの形態をサトウキビ栽培が採ったことも、同じような悪影響をその後の歴史に残しました。
新大陸の発見によって、まず最初に砂糖の大生産地となったのはブラジルの北東部(ノルデステ)でした。1530年代にサトウキビ栽培が始まり、1630年にレシフェを中心とする地方がオランダ領となると、更に生産が促進されます。しかし、1654年にブラジル北東部が再びポルトガル領となると、サトウキビ生産者達は技術を持ったままカリブ海のイギリスやフランス領に移民、1650年代からはカリブ海域において大規模な砂糖プランテーションが相次いで開発され、この地方が砂糖生産の中心地となってゆきました。砂糖プランテーションには多くの労働力が必要でしたが、この労働力は奴隷によって賄われ、アフリカから多くの黒人奴隷がカリブ海域へと運ばれてきましたが、ここで奴隷船は砂糖を買い付け、ヨーロッパへ運んで工業製品を購入し、アフリカで奴隷と交換したのです。このいわゆる三角貿易は大きな利益を上げ、この貿易を握っていたイギリスはこれによって産業革命の原資を蓄えたとされます。また、これらの西インド諸島の農園主達は本国議会に議席を確保するようになり、18世紀には西インド諸島派として保護貿易と奴隷制を主張する一大勢力をなしていました。1764年にイギリス本国議会において可決された砂糖法は、英領以外から輸入される砂糖に課税するもので、税収増と西インドの砂糖業保護を狙ったものでしたが、アメリカの13植民地の反対を受けて撤回を余儀なくされました。しかし、砂糖法はその始まりにすぎず、1765年の印紙法や1770年のタウンゼント諸法などによってアメリカ植民地の支配が強化されると、植民地の不満は爆発し、これがアメリカ独立戦争へと繋がってゆくのです。18世紀後半にはフランス領であるサン・ドマングが世界一の砂糖生産地となりましたが、1804年のハイチ革命によりハイチが独立すると、支配者層が追放されて農園は黒人に分配され、砂糖生産は一気に衰退します。
|
|
カリブ海史と砂糖革命 |
中南米の多島海カリブ |
カリブ海は、東はトリニダードやトバゴ、バルバドス等の小アンティル諸島で大西洋と境を接し、北はキューバやプエルト・リコ等の大アンティル諸島、またユカタン半島でメキシコ湾と隔てられる縁海で、また、カリブ海とメキシコ湾を含めてアメリカ地中海とも言います。面積はほぼ264万km2で、日本海とオホーツク海を加えた面積とほぼ同じです。内部には東からベネズエラ海盆、コロンビア海盆、ケイマン海溝、ユカタン海盆と並び、深さはほぼ3000〜6000m、最深部はケイマン海溝で約7100mあります。ベネズエラの直ぐ北にあるカリヤコ・トラフは水深が約1400mですが、300mから下は無酸素層で名高く、また、カリブ海の周囲は活発な地震帯で火山活動も盛んです。次に気候は熱帯気候で北東貿易風が卓越しており、南米北岸での風向は年間90%以上が東寄りです。気候は乾季(一般に10月〜3月)と雨季に分けられます。もっとも雨量はパナマの一部を除いては多くなく、年間1000mm以下のところが多いとされます。夏から秋のハリケーン以外は嵐も余り多くはなく、ハリケーンのカリブ海での発生は25年間で30個とされています。特に北緯14度より南では殆ど発生しません。ただ、ハリケーンはメキシコ湾や他の大西洋域ではかなり見られるものの、太平洋の台風よりも多くありません。また、気温は年間を通じカリブ海の南では25〜28℃、北では23〜28℃くらいです。さらにカリブ海の海流は北赤道海流ないしガイアナ海流の一部が大西洋より入り込むものが代表的で、カリブ海流とも言われています。海流は殆ど南米大陸に平行にほぼ北緯13度付近を西に向かい、流速は表面で1ノット内外ですが、時にはかなり速い値(2ノット程度)を示すこともあります。この流れはメキシコ湾に入り、フロリダ海流に繋がっています。また、水温の分布には一つの特徴が認められます。一般に表面水温は夏は27℃くらい、冬は約25℃ですが、ただし南米大陸寄りの水温は低く、ベネズエラの東の沿岸では冬は22℃、夏でも25℃です。北上すれば水温は上がり、中央部から北は夏では27℃となります。南米大陸沿いの低水温帯は東風による沿岸湧昇の影響で、これはハリケーンの発生を抑止する働きがあります。海水の塩分は表面で36‰くらい、100m前後の深さで最も高く36.8‰、更に深さを増せば値が低くなり、700mくらいで最少値34.7‰となりますが、この状態はカリブ海の南半分で見られ、亜南極中層水の影響を受けています。湧昇域では栄養塩類も多く、またプランクトンが豊富で漁獲も多くあり、特にイワシやエビをはじめ魚種も豊富です。マグロも一時カリブ海でかなりの漁を見ましたが、現在は余り穫れず、またエビも漁獲が落ちています。なお、カリブ海周辺の鉱物資源として忘れることのできないのは石油です。トリニダード島からベネズエラにかけての石油の産出は有名で、最近は周辺のエクアドル、メキシコなどでも油田が開発されています。
|
ヨーロッパ人による征服 |
一般にカリブ海地域と呼ぶ場合、それは西インド諸島もしくはアンティル諸島と総称される大小多数の島々と、この海域に面している中米や南米大陸の沿岸地域のことを指しています。15世紀末以来この地域は、近世以降のヨーロッパの発展と重要な関わり合いを持ちつつ、独自な歴史世界を形成・発展させてきました。
1492年、コロンブスらの一行が最初のヨーロッパ人としてこの地域に到来した当時、これらの島々にはアラワク(もしくはタイノ)、シボネイ、カリブと呼ばれる三つの先住民部族がいましたが、大陸のアステカやマヤ、インカに比べて遙かに低い発展段階にとどまっていた彼らは、スペイン人による征服とその苛酷な労役、さらにヨーロッパからもたらされた疫病などにより急速にその数を減らし、スペイン人到来からほぼ1世紀後には、小アンティル諸島やベネズエラ沿岸に残った少数のカリブ族以外はほぼ絶滅してしまいました。先住民人口の急速な減少、さらにこれらの島嶼での金の枯渇によって、早くも16世紀半ばにはこの地域はスペイン本国やスペイン人にとって経済的重要性を持たない二流の植民地へと転落します。ただし、この海域がスペイン本国とアメリカ大陸の植民地を結ぶ貿易・軍事上のルートに位置していたため、戦略上の重要性は維持し続けました。17世紀に入ると、オランダやフランス、イギリスの北西ヨーロッパ諸国がスペインによるこの海域の独占的領有・支配に挑み始め、以後19世紀初め頃までこの海域はヨーロッパ列強による植民地争奪の主要舞台となります。1620年代から30年代にかけて北西ヨーロッパ諸国が小アンティル諸島を占領し、更に1650年代にはイギリスがジャマイカを占領、続いてフランスがイスパニオラ島にサン・ドマング植民地(のちのハイチ)を築きました。
|
奴隷制とプランテーション |
1640年代にイギリス領バルバドスで始まった大規模な奴隷制砂糖プランテーションは、この海域の歴史にとって重大な転機となりました。このバルバドスの「砂糖革命」は、やがてリーワード諸島やジャマイカへと波及し、18世紀後半にはサン・ドマングで、更に19世紀にはキューバで著しい発展を見ます。このように最盛期に時期の差があったものの、奴隷制砂糖プランテーションはこの地域の殆ど全てを舐め尽くすように広まったのです。
奴隷貿易と砂糖生産は巨大な富を生み出し、かつての辺境の島々は「カリブ海の宝石」に生まれ変わりました。その富を生み出したのが奴隷ですが、P.
カーティンの推計によると、17世紀から19世紀のほぼ3世紀の間に主として西アフリカからカリブ海地域に送られた奴隷の数は約400万に達し、その数はアメリカ大陸の諸地域の中で最も多いものだったと言われます。当然ながら苛酷な労働や規制から逃れるため、奴隷達は各地で反乱や逃亡を企てます。奴隷の抵抗としては、1730年代にジャマイカで起こったマルーン戦争が有名ですが、その規模が最も大きな反乱は、フランス革命の影響の下で1791年にサン・ドマングで起こった奴隷の大蜂起で、トゥサン・ルベルチュールの指導で進められたこの反乱は、やがて当時ヨーロッパで最強だったイギリス軍やナポレオンの軍隊を撃退して、1804年にはついに世界で最初の黒人共和国ハイチとして独立したのです。それは世界史上空前の事件でした。その一方で、イギリス領でも本国の人道主義者の活躍や経済上の理由、更には植民地での反乱激化の動きを背景に、1834年にはイギリス本国議会は植民地での奴隷解放を承認します。奴隷解放後、ジャマイカやバルバドスでは解放奴隷による小農民化が進み、一方、イギリス領ギアナやトリニダード・トバゴでは奴隷に代わる労働力としてインド人を導入して砂糖生産が続けられました。
長い間停滞していたスペイン領キューバでも、競争相手であったサン・ドマングでの砂糖産業の崩壊や大規模な奴隷輸入の開始、蒸気機関や鉄道など新技術の導入、また、イギリスから独立したアメリカ合衆国という市場の出現などといった条件の下で、18世紀末から奴隷制砂糖プランテーションが急速に発展し、1840年代以降には大々的な発展を遂げました。キューバでは68年に本国からの独立を目ざした〈10年戦争〉と呼ばれる戦争が始まった。奴隷も参加したこの戦争で結局独立は達成できなかったが、80年には奴隷解放がなされ、戦後のアメリカ資本の進出や、砂糖プランテーションの集中、巨大化などにより近代資本主義的な砂糖産業の発展が始まった。また、スペイン領のプエルト・リコでも1868年に独立を目指した蜂起が起こり、1873年には奴隷制が廃止されます。そして、1821年以来ハイチの支配下に置かれていたドミニカ共和国は1844年に独立しますが、その後、政治の混乱や国家財政が悪化した状態が続きました。
|
アメリカ合衆国の進出 |
19世紀末、アメリカ合衆国がこの地域に本格的な進出を開始することによって、この地域の歴史は新しい段階を迎えます。
1895年、キューバではホセ・マルティの指導の下で再びスペインからの独立を目指した闘いが始まりますが、1898年、合衆国がこの闘いに介入してスペインと米西戦争を起こし、それに勝利した合衆国はプエルト・リコを領有、スペインから独立したキューバを保護国とします。その後、合衆国はキューバに対して度々軍事干渉を行なうと共に、砂糖産業を中心に巨額の投資を行ない、キューバを半植民地的な状況に置きます。世界の強国を目指した合衆国は、1903年にコロンビアから独立したパナマとの間に条約を結んでパナマ運河の建設に着手します(1914開通)。合衆国はカリブ海での利権の保護と防衛戦略上の必要からカリブ海一帯でのヘゲモニーの確立を目ざし、第1次世界大戦が終わるまでにドミニカ共和国とハイチをそれぞれ軍事占領、保護国という形で支配、アメリカはキューバやパナマの保護国化と相俟ってカリブ海におけるヘゲモニーを確立します。このような合衆国の覇権政策に対して、この地域諸国はハイチでのカコと呼ばれる武装農民の反乱(1918)や、ドミニカ共和国での軍事占領に対する抵抗、キューバでの1933年の民族主義的な革命の勃発など、様々な抵抗を示しますが、結局これらは封じ込められ、1930年代から50年代にかけて、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国などでは合衆国の権益を守護する独裁者達が出現します。
|
カリブ海政策 |
カリブ海政策とは、20世紀初頭にカリブ海地域におけるアメリカの政治的優越を確立するために採られた政策を言います。
1898年の米西戦争によって、アメリカはスペインにキューバを放棄させ、プエルト・リコをアメリカに譲渡させます。アメリカは1902年にキューバを独立国としますが、しかし、アメリカはキューバに対する干渉権を留保し、また海軍基地を保持しました。また、1901年のイギリスとのヘイ=ポンスフォート条約で、アメリカは単独で中央アメリカ地峡に運河を建設し、管理・防衛することをイギリスに認めさせ、更に1903年にはコロンビアと条約を結んでパナマ運河地帯を租借しようとしました。しかし、コロンビア議会がその条約の承認に反対したため、パナマ人の反乱が起こると、アメリカは海軍を派遣して彼らを保護し、パナマの独立を認めて、運河地帯の永久租借権を得たのです。運河の建設は翌年に始まり、1914年に開通しましたが、その間アメリカはカリブ海地域にヨーロッパ列強が影響を及ぼすのを排除しようとし、1904年大統領セオドア・ローズベルトは、「国際的に迷惑を及ぼす小国がある場合、文明国の干渉が必要だが、そのような場合、西半球ではモンロー主義により合衆国のみが干渉の任に当たる」と主張します。それ以来十数年間、アメリカはカリブ海地域の国々の政治が混乱した時には屡々海兵隊を派遣して秩序の維持に当たらせることになります。また、対外的な債務が返済できない国がある場合には、アメリカは自国の銀行にその債務を肩代りさせると共に、関税の管理権を獲得して財政再建を行なわせました。このような干渉政策は、これらの国々に民主主義を教えようとしたウィルソン大統領の時代に頂点に達しますが、第1次大戦後は、この地域におけるアメリカの優位を脅かす可能性のある国は存在しなくなり、その一方でラテン・アメリカ諸国のアメリカのやり方に対する反発が強くなったので、アメリカは次第に干渉政策を自粛するようになり、1930年代には善隣政策の名の下に干渉権を否定するに至ったのです。
|
|
砂糖革命とキューバ |
アンティルの真珠キューバ |
キューバはカリブ海にある社会主義の共和国で、キューバとはスペイン語の発音ではクーバだが、これは原住民がキューバ島を指していた呼び名で、スペイン人も征服後それに従ったものです。キューバは、本島と南西の海上に浮かぶピノス島及び沿岸の小島やサンゴ礁からなり、西インド諸島では最大の島国で、北海道と九州を合わせた面積よりやや小さい国です。アメリカ合衆国のフロリダのキー・ウェストの南方160kmのところ、メキシコ湾の入口に跨がるように東西に横たわっており、島の東端のウィンドワード海峡はアメリカ東部とパナマ運河を結ぶ重要な航路となっています。「カリブ海の赤い星」として注目されている社会主義国キューバは、このように戦略上も商業上も共に重要なところに位置しているのです。西インド諸島はアンティル(アンティーリャス)諸島とも呼ばれるが、キューバはその島の美観故に古くから「アンティルの真珠」とも称されてきました。
キューバは国土の約60%が低地となだらかな丘陵地帯とからなり、残りが山岳地帯となっています。大きな山脈は何れも東西に走り、最大の山脈は東部のマエストラ山脈で、ここにはキューバの最高峰トゥルキノ山(標高2005m)があります。その他に主な山脈として、西部のオルガノス山脈やロサリオ山脈、中部のエスカンブライ山脈があります。河川は200以上あり、また西部や中部のカマグエイ州を広く覆っている赤い粘土質の土壌は極めて肥沃で、サトウキビの栽培に最も向いています。キューバは熱帯に位置しているにも拘らず、一年中吹きつける貿易風の影響で温帯ないし亜熱帯の気候で、乾季と雨季に分かれ、前者は11月から4月まで、後者は5月から10月まで続きます。平均気温は夏が27℃、冬は21℃で、7月と8月は最も暑く、ハバナでは38℃に達することもありますが、山岳地帯の気候は概して涼しいとされます。雨量は地域や年によって異なりますが、低地の年間平均雨量は890〜1400mmです。キューバはハリケーン・ベルトに位置しているため、屡々ハリケーンに襲われますが、1800年以来キューバを襲ったハリケーンのうち最も破壊的であったのは1963年のハリケーン・フローラで、この時には4200人が死亡、3万の家屋が崩壊したと言います。ハリケーンや屡々襲う旱魃による被害がキューバの農業、ひいてはこの国の経済に及ぼす影響は軽視できないものがあります。なお、キューバには白砂と椰子の美しい海岸がたくさんあり、特にマタンサス州にあるバラデロの海岸は保養地として国際的に有名です。そのため、このような島の美観はこの国の貴重な観光資源となっています。
|
アメリカ合衆国の覇権とキューバ |
アメリカによるカリブ海諸国に対するヘゲモニーを打破する最初の動きとなったのが1959年のキューバ革命で、それは、独裁者の打倒と反米民族主義の闘い、社会主義革命といった急進的な道を歩んで、カリブ海のみならずラテン・アメリカ現代史全般にとっての一大画期となりました。その一方でイギリス領植民地でも、1930年代から労働運動の高揚や政党の結成などを通じて自治を要求する動きが強まり、第2次世界大戦後には、西インド諸島連邦(1958〜62)が解体して1960年代以降、独立国が続々と誕生します。社会主義国キューバでは、社会的・人種的平等化が進められ、大勢の黒人が社会の様々な分野に進出して活躍するようになりました。それと同時に、キューバの歴史や文化、宗教におけるアフリカ的要素の復権やカリブ海地域の奴隷制に関する研究が積極的になされて、キューバのアイデンティティとカリブ海地域のアイデンティティを一体化する努力が払われます。1960年代から1970年代にかけて、ガイアナやトリニダード・トバゴ、ジャマイカの旧英領の国々で社会主義を志向する政治勢力が政権に就き、1960年代末にはジャマイカで始まったブラック・パワーの運動がトリニダード・トバゴからグレナダへと波及、その影響でグレナダでは1979年に革命が起こって左翼政権が出現しました。このようなカリブ海での黒人達による急進的な政治の動きの多くは、黒人の地位向上やアフリカ性の回復の主張を伴なっていました。1950年代にジャマイカの首都キングストン西郊の下層黒人大衆の間で広がっていたアフリカへの回帰を説くラスタファリの信者たちの運動も、1960年代はに反政府運動化しました。しかし、カリブ海地域でのこのような急進的な動きに危機感を抱いたアメリカ政府は、レーガン大統領の時代にカリブ海援助構想を打ち出して(1982)カリブ海諸国の懐柔に努める一方で、1983年には他のカリブ海諸国と共にグレナダに軍事侵攻を行なって革命政権を打倒します。そういった状況の中で、冷戦の終結とソ連社会主義の崩壊でキューバをはじめとするこの地域の社会主義勢力や進歩的勢力はその後ろ楯を失い、そのような状況の下でこの地域でのアメリカ合衆国の影響力は急速に回復します。キューバに対する経済封鎖は強化され、ハイチでの軍事政権追放(1994)も米軍派遣というアメリカ主導によって解決がなされます。1990年の選挙で解放の神学者アリスティドを支持してこの国の近代化と民主化を求めて立ち上がったラバラス(奔流)と呼ばれる民衆運動の高揚も、1994年の民主政治復活後には勢いを欠いてしまいました。カリブ海の多くの国は1980年代にこの地域を襲った経済不況から立ち直るのに懸命で、今やこの地域ではイデオロギーの季節は去り、経済の季節を迎えているのが現状です。そして1995年には、キューバも含めたカリブ海諸国が経済の活性化と域内協力による地域の自立化を目指して、メキシコやベネズエラなどとカリブ海諸国連合(ACS:Association
of theCaribbean States)を結成しました。しかしながら、この地域では、低開発やモノカルチャー経済、政治的分断、人種差別、断片化された社会や文化といった根本的問題は依然として解決されておらず、これらの問題を解決して低開発から脱却して経済的自立を図り、大衆に基盤を持つ独自な民族文化を形成し、地域としてのアイデンティティを確立してゆけるか否かの課題が重くのしかかっているのです。
|
植民地時代の初期 |
キューバは、1492年コロンブスの第1回航海中に「発見」されました。
スペイン人による征服以前のキューバ島にはシボネー及びタイノもしくはアラワクと呼ばれた原住民がいましたが、比較的低い発展段階にあった彼らは、1511年にこの島に到来したスペイン人のベラスケス率いる遠征隊によって征服され、その後スペイン人による虐待や彼らがもたらした疫病によって、ほぼ1世紀後には殆ど絶滅してしまいます。スペインの植民地キューバは、その後。金の採掘によって一時繁栄しますが、金が枯渇し、更にスペイン人の植民活動の重心が大陸のメキシコやペルーに移動するにつれて、早くも16世紀半ばには停滞期に入ってしまいます。しかし、ハバナが大陸のスペイン植民地と本国との間の貿易の中継地となるのに伴い、全面的な衰退からは免れました。その後、18世紀末までキューバは人口も少なく、経済的にもさして重要性を持たぬ牧畜とタバコ、砂糖を生産する小農的な社会の植民地にとどまっていました。
|
砂糖革命以後 |
そんな状況の中、18世紀の末に隣のフランス領サン・ドマング(ハイチ)で奴隷反乱が起こり、その島の繁栄していた砂糖産業が壊滅したこと、アメリカ合衆国が独立してキューバの貿易相手として登場したこと、更にキューバの開明的なクリオーリョ(土着化したスペイン人)の地主階級が黒人奴隷の輸入自由化を求め、大規模な土地所有が可能になるよう本国政府に積極的に働きかけ、それらを実現したことなどによって、18世紀末から「砂糖革命」と呼ばれる大規模な奴隷制砂糖プランテーション産業が勃興しました。更に1840年代以降には鉄道や蒸気機関を導入するなどして砂糖産業はますます発展し、1860年にはキューバは早くも世界最大の砂糖生産地となります。19世紀の初めイスパノ・アメリカの地域は本国からの独立を達成しますが、当時砂糖産業が順調に発展していたキューバでは独立に向けての組織的な動きは起こりませんでした。1840年代には砂糖地主の中で同じ奴隷制国家であったアメリカ合衆国との合併を望む声が強まりますが、合衆国が南北戦争で奴隷制を廃止したため、その望みは消え失せてしまいます。その後キューバのクリオーリョ達は、本国政府に対して本国人との政治的平等や貿易の一層の自由化を要求しますが、本国政府がそれらを受け入れなかったため、1868年、ついに独立に向かって武力で立ち上がったのです。「10年戦争」と呼ばれるこの戦争は、反乱軍が奴隷解放を行なったため奴隷解放戦争の性格を帯びていましたが、キューバ人クリオーリョの内部が分裂していたことなどの理由により、結局反乱軍は勝利できず、1878年にサンホン協定を結んで戦争は終結します。そして、その10年戦争後に本国政府は奴隷解放に踏み切り、1886年にキューバの奴隷制は完全に廃止されました。また、戦後砂糖産業の近代化と集中が進み、それに関連してキューバ砂糖業へのアメリカ資本の進出が始まったのです。
|
独立から革命まで |
キューバ人は、その後J. マルティの指導の下で再び独立の準備を進めます。マルティは1892年にキューバ革命党を結成し、10年戦争の英雄であるゴメス将軍やマセオ将軍の協力を得て、1895年にアメリカ合衆国からキューバに侵入、再び独立戦争を開始します。キューバの情勢に重大な関心を払っていたアメリカ合衆国政府は、1898年4月、ついにキューバ人の側に立ってスペインと米西戦争を開始します。戦争は短期間で終結し、同年12月パリで講和条約が結ばれ、キューバがスペインの支配から離れること、また、独立するまでアメリカの軍事占領下に置かれることが決められました。このように、1902年5月にキューバは独立しますが、独立に際して制定された憲法にアメリカがキューバに対する干渉権や海軍基地提供の義務を明記した「プラット修正」条項を強引に押しつけたため、キューバは実際には半ば植民地の状態に置かれることになります。この条項に基づいてアメリカは翌年キューバとの間に条約を結び、キューバのグアンタナモとバイア・オンダに海軍基地を設置すると共に、その後キューバの内政に対して屡々軍事力を用いて干渉するのです。
独立後キューバに対するアメリカの投資は増加し、その総額は独立前の約5千万ドルから1920年代末には約11億ドルに達し、アメリカ資本による支配は砂糖産業のみならず、金融、鉱山、鉄道、電力、電信、電話の部門に及びました。こうしてキューバの経済は、極度に砂糖に依存するモノカルチャー経済となり、工業など他の産業が発展しなかったため、経済は国際市場での砂糖価格の変化に左右される不安定なものになりました。その上、砂糖産業が収穫期とその時期以外の「死の季節」と呼ばれた農閑期を持つ季節産業であったため、多くの農民や労働者が困窮しました。1920年代の末に始まった世界恐慌は、当然キューバも直撃したため、経済不況や社会不安が起こり、それを背景にして1933年9月に革命が起こり、民族主義的な政権が生まれるのですが、それもアメリカ政府の圧力などにより僅か4ヵ月で崩壊します。アメリカ政府は1934年にキューバと新条約を結び、プラット修正を廃棄しますが(グアンタナモの海軍基地の条項は残されたままでした)、その後はアメリカによる軍事干渉の代わりにキューバ軍、特にその実力者であったF.
バティスタを通じて、アメリカはキューバの秩序維持と安定に当たりました。その一方で、アメリカは1934年にキューバとの間に互恵通商条約を結ぶと共に砂糖輸入割当法を制定することによってキューバ糖の市場を安定させ、それによってキューバ経済を不況から回復させようと努めますが、これらの政策はキューバの対米従属を一層深めさせることになり、このような政治的・経済的な対米従属からの脱却を求めてキューバで再度革命が起こるのです。これは、フィデル・カストロの指導の下に行なわれたラテン・アメリカにおける最初の社会主義革命でした。
|
|
[ ページトップ ] [アドバイス トップ]
|
|